人形佐七捕物帳(巻十八) [#地から2字上げ]横溝正史   目次  緋牡丹《ひぼたん》狂女  影法師  からくり駕籠《かご》  ろくろ首の女  猫《ねこ》と女行者     緋牡丹《ひぼたん》狂女  瘤寺《こぶでら》の瘤和尚《こぶおしょう》   ——飲む、打つ、買うの破戒坊主  布袋屋四郎兵衛《ほていやしろうべえ》は庭のおくの茶屋のにじり口からなかへはいると、おやというふうにまゆをひそめて、 「重兵衛《じゅうべえ》、だれかわたしの留守中に、この茶室へはいったものがあるな」 「めっそうもない、だんな、だれもはいってはならぬというだんなのきついお申しつけゆえ、奉公人にもよくいいわたしてございます」 「いいや、はいった。重兵衛、あれをごらん。わたしはね、だれがいつこの茶室へはいってもわかるように、ほそい糸を、くも手にここへかけておいた。ところが、ごらん、その糸がきれている」  なるほど、重兵衛がにじり口からなかをのぞくと、ほそい糸が切れて、そこらいちめんに散乱している。  重兵衛はあきれたように、主人の顔を見なおした。糸がきれているというそのことよりも、それほどげんじゅうな用心をしなければならぬ主人の了見が、正気のさたとは思えなかったからである。  四郎兵衛はにがっぽく笑いながら、 「番頭さん、わたしはね、けっして気が変になったわけではないんだよ。おまえにゃまだ話すわけにはいかないが、わたしはいま、大きな仕事をもくろんでいる。そのもくろみを果たすにゃ、どうしてもこれだけの用心をしなきゃならないんだ」  そこは芭蕉庵《ばしょうあん》にほどちかい小名木川のかたほとり、布袋屋四郎兵衛が寮の奥庭、あるじが好みでたてられた数奇屋ごのみの茶室である。  世間ではこの寮のことを、目算御殿とよんでいる。  今助六の名のたかい蔵前の大通布袋屋《だいつうほていや》が、吉原《よしわら》での大尽遊びのあいまには、この別荘へ閉じこもり、世間をあっといわせるような大仕事の目算を立てているというところから、ひとよんで目算御殿。 「はっはっは、目算御殿か。なるほどよくいった。わたしという人間はな、いつでもなにか目算を立てていなければいられぬ性分。もうかる、もうからぬは二のつぎのこと。わたしはいつでも、命をかけた大仕事をもくろんでいないことには、生きがいがないように思われる。そして、ここが目算をねる根源地、いわばわたしの夢殿だよ」  そういってわらう布袋屋四郎兵衛、としは四十二、三だろう。今助六の異名でもわかるとおり、豪放|寛濶《かんかつ》、侠気《きょうぎ》にとんだ江戸っ子だった。体重二十貫もあろうかとおもわれる大兵肥満《だいひょうひまん》の大男で、武芸にこって、やわら、剣術、まずひととおりの腕前だった。  その四郎兵衛が、ちかごろまたなにか大きなもくろみを立てているらしいことは、重兵衛にもはっきりわかっていた。それは、この春、四郎兵衛が箱根の湯治からかえっていらいのことである。  それいらい、四郎兵衛は蔵前の本宅に腰がおちつかず、目算御殿を根城として、なにやら策をねっているようす。主人とちがって、実直いっぽうの重兵衛には、そういう四郎兵衛が危なくてたまらないのだ。 「はっはっは、番頭さん、なにも心配することはない。わたしももう四十二、むちゃなことはできやァしない」 「それはもう、だんなのことゆえ、そこにお抜かりはなかろうと存じますが、いまおっしゃった四十二というお年が、駒形町《こまがたちょう》さんにはご苦労の種」 「なにを、バカな! お柳もまた、としのわかいのに苦労性じゃないか。この四郎兵衛にかかっちゃ、厄《やく》のほうから逃げてしまうよ。ときに、番頭さん、瘤寺《こぶでら》というのはわかりましたか」 「それがですねえ、だんなのおいいつけゆえ、ひとをたのんで江戸中をさがしてもらいましたが、なにしろほんとうの名がわかっていないものですから、なかなか骨が折れましたが……」 「それでも、わかったことはわかったんだろうね」 「はい、今戸のほうに、そういうあだなのある寺があることがわかりました。なんでも、ほんとうの名は光円寺といって、浄土宗の寺だそうですが、一昨年あたりからそこに住みついた和尚《おしょう》の鉄牛さんというかたの首に大きな瘤《こぶ》があるところから、瘤和尚《こぶおしょう》といわれ、それから寺の名前まで、いつか瘤寺と呼ばれるようになったとやら」 「和尚の名は、鉄牛さんといいなさるのか」 「はい」 「そして、その和尚の首に、大きな瘤があるというんだな。そいつは面白い。首のどっちがわだえ。そして、どのくらいの大きさだ」 「はい、なんでも左のここのところに……これくらいの大きさの瘤だそうで」  と、だいだいくらいの大きさを指でしめした。 「はっはっは、そんな大きな瘤があっちゃたいへんだ。ひとめにつくのもむりはない。よし、それで瘤寺のいわれはわかった。ところで、瘤和尚の鉄牛さんというのはどういうおかただ」 「さあ、それでございますよ」  と、重兵衛はいよいよまゆをひそめて、 「だんながおさがしになるほどの寺ゆえ、さぞ寺もりっぱ、和尚さまもすぐれたかたと思いのほか、みるもいぶせき古寺だそうで。ひさしく無住になっていたところ、瘤和尚が住みついたのだそうですが、これがまたたいへんなお坊さんで、飲む、打つ、買うの三拍子、とんといまよう法界坊だそうで……」 「ううむ。それでも、檀家《だんか》の衆はたたき出そうとしないのか」 「めっそうもない。そんな荒れ寺でございますから、檀家などあろうどうりがございません。それに、その瘤和尚というのが、とんと身持ちのおさまらぬ坊主だそうでございますが、べつに悪いことをするわけではなし、どこか人間にあいきょうがあるところから、ご近所では、鉄牛さん、鉄牛さんと、かわいがっているんだそうで」  それをきいて、四郎兵衛は安心したように、しろい歯をだして笑った。 「すると、わるい人間じゃないんだね」 「へえ、評判はいたってよろしいそうで」 「年は……」 「さあ、わたしも会ったわけではございませんから……いまここへまいりましょうから、だんなじきじきにご判断くださいまし」 「おお、それじゃここへくるんだね」  四郎兵衛の顔には、しだいに興奮のいろが濃くなってくる。なにかしら、大きな冒険をやらかそうとするまえにいつもしめす色である。重兵衛は気づかわしそうに、そういう四郎兵衛の顔を見まもりながら、 「でも、だんな、わたしはなんだか心配でなりません。どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからぬような破戒坊主をひきいれて、いったい、どういうご用がおありなのでございます」 「いいよ、いいよ。重兵衛、おまえの意見には聞きあきた。しばらくひとりにしておくれ。それからな、鉄牛さんがやってきたら、すぐここへ通すように。いうまでもあるまいが、余人はいっさいちかづけてはなりませんぞ」  重兵衛はほっとため息をついた。  いったんいい出したらあとへはひかぬ四郎兵衛である。ふしょうぶしょうに席を立って重兵衛が出ていくと、茶室のなかには四郎兵衛ひとり。そとはだいぶん暗くなっていた。  待つこと小半刻《こはんとき》(小一時間)。表がすっかり暗くなったころ、茶室のそとに足音がして、 「だんな、鉄牛和尚がおみえになりました」 「ああ、そうか。どうぞこちらへ。それから、重兵衛、さっきもいったとおり、かならずあたりにひとを近づけるでないぞ」  重兵衛の足音のとおざかるのを待って、四郎兵衛はやおらにじり口のほうを振りかえったが、なるほど、そこからはいこんできたのは、法界坊さながらの生臭坊主。いくらか酒気をおびているらしく、首の瘤がてらてらとひかっている。  緋《ひ》ぼたん狂女   ——御所望の彫り物お目にかけ申し候 「瘤寺《こぶでら》の鉄牛さんとはおまえさんかえ。さあさ、遠慮はいらない。こっちへおはいり」  四郎兵衛は風炉《ふろ》のむこうの席をしめした。 「や、これはどうも。布袋屋《ほていや》のだんながお呼びだというので、わけもわからず推参いたしましたが、いったいこの生臭坊主に、どういうご用がおありなさいますんで」 「いや、それはいずれゆっくりお話しいたしましょう。しかし、鉄牛さん、おまえさんわたしをご存じかえ」 「しらないでどうしましょう。目算御殿のだんなといえば、今助六の名もたかい蔵前の大だんな株、愚僧のような生臭坊主に用事があるわけはねえと思ったが、そこは度胸でおしかけてきました。だんな、おひとちがいじゃございませんか」  幾月そらずにいるのだろう。ぼうぼうとのびたいがぐり頭、顔中がくまのようなひげにおおわれて、ゲジゲジのようなまゆのしたに酔いをふくんだ目が光っている。左の首のつけねのあたりにニューッとつきだしている大肉塊、脂ぎって、テラテラ光っているのが気味悪い。年は四郎兵衛とおっつかっつ。脂ぎった大男である。 「いや、ひとちがいではないと思う。瘤寺の和尚《おしょう》さんとは、おまえさんだろう」 「へえ、そりゃ……あっはっは、だんなもおひとがわるい。瘤寺はないでしょう。だが、まあいいや。いかさま、瘤寺の和尚というのはわたしのことでさあね」  首の瘤をなでながら、鉄牛はのどをひらいてからからわらった。 「そう、それじゃまちがいないはず、そこで、鉄牛さん、おまえさんに聞きたいことがあるが、彫り物師の与之助《よのすけ》というのをしっていなさるだろうね」 「彫り物師の与之助……? だんな、どうしてそんなことをお尋ねなさるんで。あっしがしらぬといいはったら……」 「あっはっは、しらぬとはいわさないよ。じつはねえ、鉄牛さん、わたしゃ彫り物師の与之助というひとから、おまえさんへ届けものをことづかっているのさ」 「えっ、それじゃ、だんなが……? そ、そ、そのことづかりものとは、なんでございますえ」 「あっはっは、それじゃやっぱりしっていなさるんだね。ところで、鉄牛さん、そのことづかりものというのが、ちと妙なもので……」 「妙なものというと……?」 「生きものなのさ」 「生きもの……? 鳥ですかえ、獣ですかえ」 「うんにゃ、鳥でもねえ、獣でもねえ。正真正銘、まがいなしの人間、それも花もはじろうきれいな娘。しかも、これがただの娘じゃない。ちといわくがありますのさ」 「いわくというと……?」 「背中いちめんみごとな彫り物、におうような緋ぼたんに、雄ちょう雌ちょうがまいくるう、じつにみごとな彫り物なのさ。しかも、そこに彫与之《ほりよの》と、彫り物師の名まで彫ってある」 「だんな、そりゃほんとうですかえ」 「うそをついてなんになる」 「しかし、だんなはどうしてそんな……だんなはせんから彫与之をご存じだったんですかえ」 「ところが大違い。わたしゃついちかごろまで、彫与之の与の字も聞いたことはない」 「それが、どうしてことづかりものを……?」 「さあ、そこだて。鉄牛さん、世の中はおもしろくできてるよ。まあお聞き。こういうわけなのさ」  この春、布袋屋四郎兵衛は、とりまきを二、三人つれて箱根へ湯治にでむいたが、そのかえるさのことである。へんな時刻に神奈川《かながわ》をたって、鈴ガ森へさしかかったときには日もとっぷりと暮れていた。 「ところが、そこへきこえてきたのが、おさだまりの女の悲鳴。それまた雲助がいたずらをするようだ、だれかいって助けてやれというわけで、さいわいこっちには、めっぽう腕っ節のつよい鳶頭《かしら》がついていたところから、そいつをせんとうに駆けつけたところが……」 「まにあいましたか」 「おそかりし由良之助《ゆらのすけ》」 「かわいや、娘はやられましたか」 「暗やみのなかをバラバラと、くもの子ちらしに逃げていったやつのかずが、たしかに四、五人」 「その四、五人で、念仏講とおいでなすったか」 「念仏講も念仏講も、めいめい、いちどや二度ではなかったらしい。駆けつけたときには、娘はただもう泣きわめくばかり、帯をとかれてはだかもどうよう、落下狼藉《らっかろうぜき》とはまさにあのこと」 「やれ、まあ、かわいや。それで、娘は……?」 「それっきり、気が狂うてしまいましたよ」 「えっ、気が……」 「そう、その娘がまえの宿に泊まっているのをみたものがあるが、あんなきれいな娘が、どうしてひとり旅をするんだろう、危ないもんだとかんがえたというが、案の定、雲助にかつがれての念仏講」 「かわいや、それで気がくるいましたか。それで、だんなはその娘を……?」 「まさか、捨ててもおけますまい。いっしょに江戸へつれもどったのはよいが、さて、その娘について肝をつぶしたのつぶさないのって」 「その娘がどうかしましたか」 「いやさ、気はくるっていても、見たところはしごく堅気とおもわれたのに、きものをぬがせると背中いちめんの大彫りもの」 「なるほど。しかし、その娘があっしへあてた彫与之のことづかりものとは、どうしておわかりになりました」 「それはこれよ。開いてごらん」  四郎兵衛がポンとその場へ投げ出したのは、クシャクシャになった一通のふみ。開いてみると、 [#ここから2字下げ]  かねてご所望の彫り物、お目にかけ申し候。とくとご賞美下さるべく、いずれ江戸表へ立ちかえり申し候節には、とくと談合つかまつるべく候。 彫り物師与之助  江戸瘤寺の和尚殿 [#ここで字下げ終わり]  と、ただそれだけ。  瘤和尚の目玉がギロリと光った。  永代橋の水葬礼   ——これがこの世のお名残だあな 「おまえさん、心当たりがあるだろうね」 「へえ」  鉄牛は、四郎兵衛の顔色をうかがいながら、 「なるほど、それでわかりました。あっしゃ与之助からのたよりを、きょうか、あすかと待ってたんですが、かんじんの使いのものが気がくるって、それでいままで届かなかったんですね。ところで、その女はいまどこにいるんですえ」 「それはいえないよ、鉄牛さん。だって、それをしゃべっちゃおしまいさ。鉄牛さん、こうなったらひざとも談合、おたがいに腹蔵なく打ち明けてかかろうじゃありませんか。わたしゃそれとはべつに、ちらと小耳にはさんだこともあるんでね」 「それじゃ、気ちがい娘がなにかしゃべったのか」 「なあに、あの娘がなにをしゃべるものか。わたしが小耳にはさんだのは、箱根の湯治場でのことだった。となり座敷に、西国者らしい武士がふたり、酒を飲みながらはなしているのをなにげなく聞いていると、彫り物師の与之助の使者をとちゅうでおさえなきゃ、お家の安危にかかわるとか、何万両の宝の入り舟とか、なんとやらいわくありげなひそひそ話。そのときにゃさのみ気にもとめなかったが、緋ぼたん娘をたすけてみると、それがどうやら彫与之の使者らしく、それでにわかに興をおぼえて……」 「わたしをおさがしなすったのか」 「まあ、そういうこった。もし、鉄牛さん、あれはどこの御藩中だね。そしてまた、何万両の宝の入り舟とは、いったいどういう意味なのさ。それをきかせてもらえれば、わたしのほうでも娘のありかをはなしてあげる。さあ、どうだえ、鉄牛さん」  そとはもうすっかり暗くなって、せまい茶室のなかでは行灯《あんどん》の灯が、光をましてくるようだ。その行灯の光のなかで、たがいに見かわす四つのひとみは、ともに欲の皮がつっぱって、へびのようにチロチロ光っている。  鉄牛はひげだらけの顔からしろい歯を出してにやりと笑うと、 「だんな、どうもありがとう。おまえさんのお話で、彫与之がだれを使者にたてたかわかりました」 「だからさ、それはいったいどういうわけなのか、話してもらいたいと思いますのさ」 「そりゃいえねえ」 「いえない? それじゃこっちも緋ぼたん娘のいどころをしゃべらねえばかりだが……」 「それはどうともご勝手に。そこまでわかれば、こっちの手でさがしだしてみせまさあ」 「鉄牛さん、それじゃおまえ、このわたしといっしょに仕事をするのを不服だとおいいなのか」 「布袋屋のだんな、おまえさんもヤキがまわったねえ。あっしをほんとの瘤和尚だと思っているのかい」 「えっ、なんという……?」  さすが剛腹な布袋屋の顔色にも、はっと動揺の色があらわれた。鉄牛坊主は首の瘤をなでながら、 「おまえさんにもにあわねえ。正体もよくしらべねえで、ベラベラとしゃべったもんじゃねえか。おい、これはどうだえ」  やにわに瘤をつかんでひきちぎると、四郎兵衛のまえにたたきつけたから、四郎兵衛はのけぞるばかりにおどろいた。 「あっ、それじゃおまえはにせもの……重兵衛、重兵衛、これ、重兵衛はおらぬか」 「やかましいやい。いくら呼んだところでむだだよ。重兵衛はじめ奉公人は、みんな高手小手にしばられて、さるぐつわをはめられているだろう。いくら呼んでもむだなこった」  やられたと、四郎兵衛は歯ぎしりした。腕も立ち、肝もすわった男だが、おもいがけないこの不意打ちには、さすがに狼狽《ろうばい》せずにはいられなかった。 「だれだ、そういうおまえはだれだ」 「だれでもいいじゃねえか。なあ、布袋屋、この離れのまわりには、おいらの仲間がいっぱいはいりこんでいるんだぜ。こうなったらおまえの負けだ、きように緋《ひ》ぼたん娘のいどころを吐いてもらおうじゃねえか」 「いやだ」 「いや?」 「口がたてに裂けたっていうもんか」  鉄牛はすごい目をして、じっと四郎兵衛の顔をみていたが、やがてにんまり笑うと、 「なるほど、そのつらだましいじゃきいてもむだだな。しかし、布袋屋、おまえこのまますむと思っちゃいねえだろうな」 「どうするのだ」 「おまえはすこし知りすぎている。生かしておいちゃためにならねえ。こういうこともあろうかと、おらアこんなものを用意してきた」  破れ衣のしたからつかみ出したのは、大きな布の袋である。 「はっはっは、これがなんだかわかっているか。これはな、おまえのからだを袋につめて、永代橋からどんぶらこ、水葬礼というわけよ。おれはこれでも出家のはしくれ、血を見るのが大きらいでな。あっはっは」  鉄牛はのどをひらいてひくくわらうと、ひょうのように身をまるめていたが、やがて、さっと破れ衣のそでをひるがえしておどりかかった。 「あっ!」  とたんに行灯《あんどん》がひっくりかえって、あたりいちめん真のやみ。そのやみの底から、もみあうふたつの肉塊が熱い息をはきあっていたが、それも一瞬、やがて勝負がついたらしい。 「ちょっ、てまをとらせやァがった」  ひくいつぶやきとともに、やみのなかでくろい影がしばらくもぞもぞしていたが、やがて、 「おい、だれかいるか」  と、そとへむかっておしころしたような声。とたんに、ヌッと暗やみのなかへふたつの影がはいってくる。 「へえ、親分、首尾はどうです」 「そういうおまえたちは……?」 「金太に銀造ですよ。ほかのやつらは、母屋のほうを見はってます」 「よし、それじゃ、この袋をかついでいけ。そして、永代橋からどんぶらこ。いいか、わかったな」 「おっと合点。ときに、母屋にいる連中はどうしましょう」 「もう用事はねえから引きあげさせろ」 「そして、親分は?」 「おれか、おれはもうすこしあとにのこって、調べていきてえことがある。そら、これが袋だ。当て身をくらって気絶している。いいか、かついだか」 「ちょ、ちょっと待っておくんなさい。こう暗くっちゃ……銀造、いいか」 「兄い、大丈夫だ」 「よし、それじゃ、親分、ひとあしおさきに……どんぶらこがすんだら、本所割り下水の跡部《あとべ》屋敷でまってますから、はやくかえっておくんなさいよ」 「よし、わかった。早くいけ」  その夜、遅くなってからである。永代橋のうえに一丁の駕籠《かご》がとまったかとおもうと、なかから担ぎ出されたのは、くろい大きな袋であった。 「銀造、いいか、だれも見てやァしねえか」 「大丈夫だ、兄い、いまのうちだ」 「よし、布袋屋四郎兵衛、これがこの世のお名残だあな。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》……」  袋は橋の欄干をこえて、くるくると二、三度、宙におどったかとおもうと、大川のなかへまっさかさま……空には月も星もない陰暦六月八日のこと。  人形佐七登場   ——養子の福之助とおめかけのお柳さま 「なるほど、それじゃそいつ、瘤寺《こぶでら》の鉄牛|和尚《おしょう》と名のってのりこんできたんですね」 「はい、それですから、きょう、なにはともあれ、そのことをたしかめようと、手代の清七を案内者にして、こっそり今戸の瘤寺をのぞいてみました。ところが、あに図らんや……」 「あに図らんやとおっしゃいますと……?」 「そこの和尚の鉄牛さんというのは、ゆうべの坊主とまるでちかっているではございませんか。それで、若だんなや駒形町《こまがたちょう》さんともご相談のうえ、親分さんにきていただいたのでございます」  茶室のなかは、ゆうべのなごりをとどめて、乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》をきわめている。そのなかに立って重兵衛の話をきいているのは、いうまでもなく人形佐七だ。そばには辰と豆六が神妙にひかえている。  ゆうべ、この目算御殿にいたものは、ふいにおそった偽鉄牛の一味のものにぜんぶしばりあげられて、ひと間のうちにおしこめられた。狼藉者はしばらくかれらを監視していたが、やがてあいずの口笛で、潮がひくように立ち去った。  そのあと、みんながやっと自由になったのは、半刻《はんとき》(一時間)もたってからのことである。  そうして、じぶんたちが自由になると、まず気にかかるのは四郎兵衛のこと。そこで、この茶室へきてみると、主人のすがたがみえないばかりか、行灯《あんどん》はたおれ、ふすまはやぶれ、おまけに畳のうえに血が数滴。  重兵衛はびっくり仰天、さっそくそのよしを蔵前の本宅と、駒形町の妾宅《しょうたく》にしらせると、養子の福之助《ふくのすけ》と、おめかけのお柳さまが、おどろいてかけつけてきた。  そこでいろいろ協議をしたが、なにしろお店の名前もあるから、あまりはやまって表ざたにするのもどうかということになり、なにはともあれ瘤寺というのをさぐってみようと、重兵衛がでむいてみると、きのうきた鉄牛というのは真っ赤なにせもの。  とわかってみれば捨ててはおけない。といって、布袋屋としては、やはりお店の名前は出したくない。そこで思いついたのが佐七のこと。  佐七ならば侠気《おとこぎ》のある人物ゆえ、わけを話せばことを内分にはこんでくれるだろうと、そこで手代の清七をお玉が池へかけつけさせたのは、もう暮れがたちかくのことだった。 「親分さん、ひょっとすると、だんなさまは殺されなすったのではございますまいか」  おめかけのお柳さまは青いまゆねをふるわせている。みたところ、はたち前後、四郎兵衛とは親子ほどもとしがちがっているが、さすが蔵前の大だんなの寵愛《ちょうあい》ふかい女だけに、あでやかなという一語につきるような器量である。  お柳さまは着やせするたちで、みたところすらりとすがたのよい女だが、脱がせてみると、案外肉付きのよさそうな、ふとっているが、ふとりすぎとはけっしていえない、弾力性にとんだからだをしている。それに、膚のきれいなことは無類である。いわゆるもち膚というやつだろう。  顔はしもぶくれの豊頬《ほうきょう》にあいきょうがあり、あでやかであるとどうじに、さわやかで凛々《りり》しいかんじの美貌《びぼう》だが、いまはその美貌が、心痛にくもっていることはいうまでもない。  駒形堂のそばにかこわれているので、駒形町さんとよばれている。  四郎兵衛は女房運のわるい男で、二度妻をめとって、二度とも妻にさきだたれた。しかも、どちらの妻にも子どもがなかった。  二度めの妻にも子どもがないとわかったとき、四郎兵衛はじぶんに子ダネがないものとあきらめて、甥《おい》の福之助を養子にしていた。 「駒形町さん、そんな縁起でもないことをおっしゃるものではございません。おやじさまはきっとどこかで生きていらっしゃいます」  そばからたしなめる養子の福之助は、まだ十六、七の美少年、前髪をそりおとしたのがおしいような、あどけない美貌のもちぬし、それでいて、黒水晶のような双のひとみが、いかにも利口そうにかがやいている。 「いや、これは若だんなのおっしゃるとおり、これっぽっちの血で、人殺しがあったとはきめるわけにゃいきません。ときに、番頭さん」 「はい」 「おまえさん、きょう瘤寺の和尚《おしょう》にあって、だんなのことをきいてみなすったか」 「いえ、それもかんがえましたが、なまじっかなことを切りだして、やぶをつついてへびを出すようなことがあってはと、ただこっそりとすがたを見てきただけでございます」  いかさま、大店《おおだな》の番頭としては、さもあるべき用心だった。 「ときに、だんなのいいつけで鉄牛和尚のもとへ使者に立ったのは……」 「はい、それはわたしでございます」  と、一同のうしろから顔を出したのは手代の清七。 「やっと瘤寺のありかがわかりましたので、だんなさまに申し上げると、それでは和尚をここへ呼ぶようにとのご命令で、わたしが今戸まででむいたのでございます。ところが、いまから考えるとおかしいのは……」  そのとき、とりつぎに出たのは、いがぐり頭のひげむしゃ坊主、和尚の鉄牛とにたりよったりの風体だったが、むろん鉄牛ではなかった。その坊主のいうのには、和尚の鉄牛は、酒にくらい酔っておくでねている。用事ならじぶんがきこうというので、つい、うっかりと、清七は用事のむねをいいのこしてきたのである。 「それですから、わたしがゆうべこちらにおりますれば、にせものとすぐわかったのでございますが、わたしはあいにく蔵前のほうにいたものでございますから……」  清七は肩をすぼめて、いかにも申しわけなさそうである。 「ときに、だんなが鉄牛をさがしはじめたのは、箱根からかえって以来のことだとおっしゃいましたね。湯治には、いずれお供があったのでしょうが、そのひとたちに、なにかお心当たりは……?」 「いや、それならわたしの口から申しましょう」  清七のうしろから顔をだしたのは、ひとめで鳶頭《かしら》としれる人物。 「あっしゃかねてから、こちらのだんなのごひいきになっている梅吉というものですが、箱根のかえりに、こういうことがございましたので……」  鳶頭の梅吉がかたったのは、鈴ガ森で狂女をすくった一件から、その狂女の背中にみごとな緋《ひ》ぼたんの彫り物があったという話。 「それに、その娘が膚身はなさずもっていた手紙をみると、だんなはひどく心をうごかされたらしく、なにか思案をしていらっしゃいましたが、ひょっとするとこんどの一件は、緋ぼたん娘となにかかかりあいがあるのじゃ……」  と、いわくありげな梅吉のはなしに、佐七は辰と豆六と顔見合わせた。 「ところで、その娘はどうしました」 「さあ、いっしょに江戸へつれておもどりになったところまではわたしも承知しておりますが、それからあとはどうなったか、そこまではきいておりません」  佐七はお柳さまや福之助にもたずねてみたが、ふたりともそういう話はうすうすときいてはいたものの、四郎兵衛がその娘をどこへかくしたのか、また、その娘にどういうしさいがあるのか、そこまではしらぬという。 「いや、よくわかりました。すると、なんですね。旅先でひろってきた緋ぼたん娘をタネに、だんなが何かもくろんでいらっしゃるのをだれかにかぎつけられて、悪者の手にかかったということになりましょうか」 「親分、くれぐれも隠密《おんみつ》に……」 「いや、よくわかっております。いざとなるまでは、できるだけお名前を出さぬようにいたしましょう。それでは、きょうのところはこれで……」  佐七はひとまず目算御殿にわかれをつげたが、表へ出ると、辰と豆六をふりかえり、 「辰、豆六。おまえたち、これから蔵前へおもむいて、布袋屋の内幕をあらってみてくれ」 「へえ、親分、そんなら、布袋屋の家内のものに……」 「なにか臭いところがある、いやはりまんのんか」 「というわけじゃねえが、こういうことは足下からかためてかからなきゃいけねえ。念には念をいれよというからな」 「おっと、合点だ。豆六、いこうぜ」 「へえ、それはよろしおますが、親分は?」 「おれは瘤寺というのをしらべてみる」  と、とちゅうで辰や豆六とたもとをわかった人形佐七が、やってきたのは今戸の光円寺。  隣屋敷はぼたん屋敷   ——はなれ座敷から琴の音色が  なるほど、ひどい古寺だ。築地《ついじ》はくずれ、山門はくち、軒のかたむいた本堂の屋根にはペンペン草が風にそよいでいる。  佐七は荒れはてた庫裏へまわって声をかけたが、ただ陰々とひびきわたるばかりで、返事はなかった。  佐七はぐるりと寺のまわりをまわってみたが、もとはそうとうの寺だったらしく、鬱蒼《うっそう》たる木立におおわれた庭のおくに大きな池がある。その池のそばをとおりすぎるとき、佐七はどきりと目を光らせた。池ははんぶんいじょう土で埋まっているが、その土のぐあいが、じんじょうでない。佐七はそっと土をつまんで、しばらくなにか考えていたが、やがて、いそぎあしに寺を出た。  寺の門前からほどとおからぬところに荒物屋があり、おかみさんが店番をしていた。 「ちょっとおたずねいたします。瘤寺《こぶでら》の鉄牛さんは、おるすのようだが……」 「ああ、その鉄牛さんなら、さっきどこかへお出かけでしたよ。なんだかひどくあわてたようすで、もうひとりのひとと、そそくさとここをとおっていきましたよ」 「それじゃ、和尚《おしょう》さんにはつれがあったんですね。そして、そのつれというのは……?」 「さあ、それはよくわかりませんでした。なにしろ、吉原通いのように、編《あ》み笠《がさ》をかぶっていましたので……」 「お武家さまかえ。町方かえ」 「町方のようでした。お店《たな》のかたじゃないでしょうか」 「ああ、そう。それはどうもありがとう。るすならしかたがない。あしたにでも出なおしてきましょう」  佐七はいったんそこを出ると、どこをどうほっつき歩いていたのか、ふたたび瘤寺のほとりへ姿をあらわしたのは、夜もそろそろ更けわたるころだった。  それでも、あれから寺のあるじがかえっているかもしれないと、佐七はしばらくなかのようすをうかがっていたが、ひとのけはいはさらにない。  佐七はとうとう、庫裏からなかへしのびこんだ。さっきのあいだに用意してきたのだろう、ふところぢょうちんであたりをみまわすと、いやもうひどい荒れかたで、よくもこんなところに住んでいられたものだと思われるばかり。  佐七はしかしなにか目当てがあるらしく、しきりに床板を気にしながら、わたり廊下をわたって、やってきたのは本堂である。佐七は一歩一歩、足下の床に気をつけながら、須弥壇《しゅみだん》のうらまでまわってきたが、 「ここだ」  と、小さくさけんで、ふところぢょうちんをふりかざした。床のうえに、ごくわずかだが散らばった土が、じゃりじゃりと、草履のうらで鳴ったからである。  佐七は身をかがめてそこらをなでていたが、やがてにんまり笑って、床板を二、三枚もちあげると、したから吹きあげてきたつめたい風に、ふところぢょうちんの灯がゆれる。のぞいてみると、床下にはふかい穴が掘ってあり、継ぎばしごがたてにかかっている。 「やっぱりそうだ。ここの土で、池をはんぶん埋めてしまやァがった。それにしても、この穴は……」  佐七はしばらく思案をしていたが、やがて思いきって、穴のはしごに足をかけた。  穴はふかくて二十段あまり、はしごをおりるとやっと足が土についた。そこから横穴がはしっているが、縦穴も横穴も、やっとひとり通れるくらいのひろさなのは、労力と、そこから運びだされる土の量をできるだけ節約するためであろう。  佐七は、ふところぢょうちんの灯をかばいながら、四つんばいになった。  このへんは、隅田川沿《すみだがわぞ》いのこととて、水気のおおいところだが、穴を掘った男はよほど心得のある人物とみえて、たくみに水脈をさけている。それでも、ところどころ、天井からポトリポトリと間断なく滴のたれている個所がある。  せまい穴のなかを、いったいどのくらいはってきたのか、そしてまた、瘤寺からどの方角にすすんでいるのか、とんと見当もつかない。  ずいぶんながいあいだ、佐七は穴のなかをはっていた。いけどもいけどもうるしのやみ。佐七はふいと恐怖感におそわれた。  はてしれぬやみが真綿のように鼻や口をおおうて、佐七はいまにも窒息しそうな嘔吐感《おうとかん》をおぼえた。いっそここいらで引きかえそうかとおもったが、いまたどってきた行程の長さを思うとうんざりである。  まえへすすまんか、うしろへしりぞかんか、佐七は四つんばいになったまま思案をしていたが、ふいにおやと首をかしげて、虚空にむかって鼻をひょこつかせた。空気のにおいが、なんだかちがうようである。  いままでの空気が死んだ空気だとすれば、いま佐七を囲繞《いにょう》している空気は、生きていて新鮮である。しかも、その空気はごくかすかだがうごいている。佐七はいそいでちょうちんからろうそくをとり出してみた。ろうそくの炎はごくかすかだが、前方から後方へゆれてなびいた。  しめた! 出口がまぢかにある証拠だ。  佐七はそれに勇気をえて、また四つんばいになって前進した。空気はますます新鮮になってきて、ほおをなでる微風さえもかんじられる。佐七はすこしまえから気がついていたのだが、穴はゆるい斜面をなしてのぼり坂になっている。  いくばくもなくして、佐七は穴をふさいでいるものにぶつかった。手でなでてみ、ふところぢょうちんでてらしてみて、それが庭石らしいことに気がついた。ひとかかえはあろうという大きな三波石《さんばせき》である。  この石にはなにかくふうがしてあったのだろうが、佐七にはそれがわからなかった。いろいろいじっているうちに、力があまったのか、巨石が穴の出口をはなれてしたへすべり落ちていったから、佐七はハッとして、ふところぢょうちんをそででつつむと、あわてて土のうえに身をふせた。  しかし、さいわいたいした音もたてずに、石はどこかでとまったらしい。佐七はしばらく土のうえに身をふせたまま、あたりのようすをうかがっていたが、そのとき、そとからきこえてきたのは、たえなる琴の音。  その琴の音に乱れもなく、また、ひとのさわぐけはいもないので、おそるおそるかま首をもたげてそとをのぞくと、空には満点の星である。やっぱり、ここが出口だったのだ。  佐七は穴から顔だけだして、用心ぶかくあたりのようすをみまわしたが、そのとたん、プーンと鼻をついたのは、かぐわしい花のかおりである。  穴の周囲いちめんに、八重山吹、霧島つつじなどが、いまをさかりと咲きほこって、それが穴の存在をかくしているらしい。  したをみると、半間ほどすべったところで、さっきの巨石がとまっていた。そこで坂は段落をなしているらしいが、それからさらに二間ほどしたに、星影をやどした水面がみえる。佐七がなおも用心ぶかくあたりをみまわすと、そこは築山の坂のとちゅうらしかった。  琴の音はいぜんとして、なんの乱れもみせずにつづいている。  佐七は安心して、そっと穴からはいだすと、用心ぶかく築山の背後へおり、池をまわって庭へでた。  それにしても、ここはいったいどこだろうと、あたりをみまわしているうちに、佐七ははっと胸とどろかせた。  瘤寺と、築地《ついじ》ひとつへだてたとなりあわせに、松野右京|太夫《だゆう》の下屋敷のあることを、佐七はさっきしらべておいた。お庭にぼたんをいっぱい植えこんだところから、ぞくにぼたん屋敷といわれ、江戸でも名だかいお屋敷である。  どうやら、ここはぼたん屋敷のなからしい。  松野右京太夫は、九州西岸岩戸に領地を持ち、わずか三万石の小名ながら、内緒の裕福なことは諸侯のなかでも指折りにかぞえられている。  おりからの星月夜に、有名なぼたんの花が、いまをさかりと咲きほこっていて、そのみごとなことはいうまでもないが、それにしても、ふしぎなのはあの抜け穴である。  瘤寺の池に穴をほった土が、うずたかく捨てられていたところをみると、抜け穴は寺のほうから掘られたものにちがいない。鉄牛がなんのために……?  佐七の胸をそぞろにおどる。  ぼたん園のつきるところに縁側のたかいはなれ座敷があり、広縁のおくに雨戸がしまっているが、欄間からはあかりがもれており、琴の音は、その座敷からきこえるのである。  佐七は、そちらのほうへしのびよろうとして、おもわずギョッとして、ぼたんのかげに身をふせた。  匂欄《こうらん》をめぐらせたまわり縁をまわって、雪洞《ぼんぼり》をかかげた女がひとりあらわれた。このお屋敷の腰元かとおもわれるその女は、雪洞をかかげて、まわり縁をいきつもどりつ。どうやら、あたりを警戒しているらしい。  佐七の胸はいよいよおどった。  檻《おり》の中の裸武士   ——女はつややかな太ももをみせて  はなれ座敷のなかで、だれかが琴を弾じている。そのそとの広縁では、腰元があたりを警戒している。これはどういうことなのか……こうなると、いかなる危険をおかしても、ひとめなかをのぞかねばならぬ。  このはなれ座敷は、わたり廊下で母屋につながっていて、そこだけ岬《みさき》のように突出している。さいわい、わたり廊下には両側に匂欄《こうらん》がついているだけで、雨戸はなかった。佐七はそっちのほうへはいっていったが、わたり廊下からはなれへはいるお錠口のようなところをあおいで、おもわずギョッとして地にひれふした。  そこにもひとり腰元が、雪洞《ぼんぼり》をもって立っている。  しかし、こうなると佐七はかえって闘志をわきたたせずにはいられなかった。これだけ厳重に警戒しているところをみると、はなれのなかでは、よほど重大なことが進行中なのにちがいない。  佐七はすばやくはなれのたたずまいをみまわしたが、ふと目についたのは、このはなれの一角から、瘤《こぶ》のように突き出しているささやかな建物である。  これはあきらかに後架である。しかも、くみ取り口のうえにある窓は、細身の竹であんだ格子になっており、それをやぶればかろうじて人間ひとりとおれそうである。しかも、そこはふたりの見張りから完全に死角にはいっている。  佐七はまもなく窓をくぐって、後架のなかへおり立ったが、それにはたいしてひまはかからなかった。ちょうどさいわい、琴の音が気でも狂ったようにあらあらしくなったので、それも佐七の作業をたすけた。  後架といっても、大名屋敷だからそうとう広い。そこをぬけると、佐七はもうはなれのなかへはいっている。  そのとき、琴の音が、弾きてのさいごの感情のたかぶりをきかせるように、たからかに鳴りひびいたかとおもうと、それきりピタリとやんで、あとは真夜中の墓場のようなしずけさ。  やがて、そのしずけさのなかからきこえてきたのは、さやさやというきぬずれの音。それにまじって、クドクドとくどく声は女である。すると、そこにもうひとりだれかいなければならぬはずだが、あいての声は聞こえなかった。  佐七はしだいに大胆になり、たくみに障子やふすまをあけて、欄間からあかりのもれている座敷と、ふすまひとえの座敷へとしのびこんだ。そこまでくると、女の声がハッキリしてきた。 「栄之助《えいのすけ》どの、どうじゃ、すこしは気分がはれましたか」  ひくい、おし殺したような女の声。それにたいして、男の返事はきこえなかったが、女はまたことばをついで、 「そのような檻《おり》にはいって、さぞ気鬱《きうつ》なこととおもいます。しかし、それもそなたの心柄じゃ。そなたがだれを江戸へ使者にたてたか、それをひとこといってくれれば、このような思いをせずともすむのじゃ。これ、栄之助どの」  女の声が、かすかにふるえた。 「わたしはそのほうを憎うは思わぬ。くにからこの江戸表へ送りとどけられたそなたをひとめ見てから、わたしはそなたがいとしゅうてなりませぬ。本来ならば生かしておけぬそなたなれど、わたしが父上にこうてもらいうけました。これ、栄之助どの。すこしはわたしの心をさっして、心をひらいてみせておくれ」  さやさやときぬずれの音、思いあまったような息づかい。しかし、男の声はいぜんとしてきこえない。  佐七の心はあやしくみだれて、いまはもう危険をもかえりみず、あいのふすまを細目にひらいた。さいわい、女はじぶんのことばに酔うているので気がつかない。  そのふすまのすきに目をおしあてて、なかをのぞいた佐七は、あっとばかりに肝をつぶした。  座敷の一隅《いちぐう》、佐七ののぞいているところから半間ほどむこうに、ふとい格子でくまれた檻《おり》が、ふすまと平行においてある。  檻のひろさは、畳三枚敷けるくらいあったが、その檻の底に、けっこうな二枚がさねの夜具がしいてあり、そのうえに、一糸まとわぬはだかの男が、大の字になってねている。いや、子細にみると、いやおうなしにそこにねかされているのである。 バンザイをするように、大きくひろげた両手の手首には鋼鉄の環がはまっており、その環についた鉄の鎖が、檻のすみの柱にゆわえつけられている。脚は適当の間隔にひらかれて、これまた足首にはめられた鋼鉄の環から、足下の格子まで鎖がのびている。掛け布団は足下にはねのけられていた。  なんのことはない、これでは俎板《まないた》のこいもおなじで、いかなる敵の攻撃にたいしても、防御は不可能である。しかも、幅二寸ばかりの絎紐《くけひも》でしっかりさるぐつわをはめてあるところをみると、舌かみ切って自害するおそれがあるのではないか。  男はこちらへ顔をねじむけていたが、なるほど、いい男振りである。それでいて、そのからだのたくましさ、隆々たるその筋肉の盛りあがりは、幼いときからきたえにきたえたからだであることがうかがわれる。  としは二十六、七だろう。むろん、武士である。  男は無念の形相ものすごかったが、そんなことにはおかまいなく、ななめうえからしっかり男を抱いているのは、もえるようなあかい腰のものいちまいの女である。豊満な女の肉置《ししお》きが薄桃色にもえているのが、手にとるようにわかるのである。  琴を弾いていたのは、この女にちがいない。檻のむこうに、黒塗り金蒔絵《きんまきえ》の琴がおいてあり、そのそばに脱ぎすててある衣装や、切り髪にした髪かたちからみて、この女は高貴の御後室様といったところらしい。 「のう、のう、栄之助どの。そなたもよくしってるであろう。御公儀の隠密《おんみつ》が領内へはいれば、切ってすてるのが諸侯のならい。それをこうして生かしておくのも、そなたがいとしいばっかり。なぜ顔をそむける。なぜまともからわたしの顔を見てくださらぬ」  女はむっくりかま首をもちあげた。満面に朱をそそいだ女は、丸顔ながらすごいような美人である。としは三十二、三であろうか。しかし、そのひとみのかがやきや、ゆがんだくちびるのはしには、ある残忍な微笑が秘められている。ねずみをもてあそぶねこのような。  女は男のどの部分にもくちづけし、もてあそんだ。男は嫌悪《けんお》に顔をねじまげ、からだをよじって抵抗した。しかし、血気盛んな生身のからだは、かゆいものはかゆいし、うずくものはうずくのである。  やがて、男のからだにたくましい反応があらわれたとみると、女は肉付きのよいつややかな腿《もも》をあらわにみせて、さいごのものをかなぐり捨てると、足下に折りかさねてあった掛け布団をひきあげながら、男のうえにからだを倒していった。  男はさいごの抵抗をこころみているようだったが、抵抗すればするほど、深みにはまるようなものである。まもなく、女の口からふかいため息がもれるのをきて、佐七はそっと、ふすまのすきから目をはなした。  ここまで見とどければ長居は無用と、障子のそとへでようとしたとき、あえぐような女の息遣いにまじって、男のふとい、のたうちまわるようなうめき声がきこえはじめた。  とうとう、男は女の術中におちいったようである。あの男は、おそらく毎夜のように、ああして女に好きなように料理されているのであろう。  あとでわかったところによると、女は芳香院といって、松野右京太夫の一の姫だった。彼女は二度嫁して、二度とも一年たらずで夫をうしなった。  いまでは髪をおろして院号などをとなえているが、父、右京太夫としては、この不幸な娘にたいして不愍《ふびん》がかかって、この下屋敷で好きほうだいのことをさせているのだと、のちになって佐七はしった。  破戒坊主の随念   ——夜鷹《よたか》は買うし舟まんじゅうは抱くし 「親分、布袋屋《ほていや》の内幕ですがね。豆六と手分けして、だいたいのことは調べてきました」  お柳さまはもと両国のならび茶屋でもゆびおりの『弥生《やよい》』という店に茶くみ女としてでていた女だが、そこに半年でていたのち、四郎兵衛の目にとまって、駒形《こまがた》のほうへかこわれたのが昨年の秋。そのときお柳さまははたちであった。 「そのじぶん、情夫《おとこ》でもあったんじゃねえのかえ」 「とんでもない!」  と、きんちゃくの辰は手をふって、 「布袋屋のだんなが鳶頭《かしら》の梅吉にのろけたところによると、だんながはじめてお柳さんを抱いてねたとき、お柳さんはまだ生娘で、一人まえの娘にするにゃ、ずいぶん骨をおらされたとかいう話ですぜ」  佐七は目をまるくして、 「たとえ半年にしろ、そういう稼業《かぎょう》にでていながら、はたちにもなって生娘とは……」 「ところが、親分、それにはわけがおまんねん。あのお柳はんちゅうのんは、浪人もんの娘やそうだす。ところが、おとっつぁんちゅうのが、浪々のうちにのうならはった。そこで、母ひとり娘ひとりというわけだす」 「そのおふくろさんが、もの堅くもの堅くお柳さんを育てたんですね。ところが、そのおふくろさんが去年の春、大患いをやらかした。そこで、弥生から茶くみ女として出るようになったが……」 「おふくろさんのしつけがやかましいもんやさかい、浮気ひとつようせなんだちゅうわけだす。そら、もう、ずいぶん引く手あまたやったそうだっけどな」 「そのおふくろさんはどうしたんだ。死んじまったのか」 「いえ、その後病気がなおって、妾宅《しょうたく》でお柳さんといっしょだそうです」 「しかし、そんなもの堅いおふくろさんが、なぜ娘をおめかけなどにしたんだ」 「そら、親分、恋に上下のへだてなしだんがな」 「というと……?」 「お柳はん、布袋屋のだんなに、ポーッときてしもたんだすがな。親子ほどとしはちごてまっけど、この道ばかりはべつもんちゅうわけだんな」 「だんなのほうでは、ひと晩のご遊興のつもりだったんだそうです。ところが、いっしょに寝てみると、つぼみもかたい生娘ときた。そこですっかり有頂天になって、おめかけという話になったんですね」 「もちろん、はじめはおふくろさん大反対やったそうだっけど、娘のほうでは、あんじょうかわいがられてしもて、だんなでなければ日も夜もあけんちゅうわけだす」 「おふくろさんもたびたび会ってるうちに、だんなの人柄にほれこんで、委細承知というわけです」 「なるほど。ところで、福之助さんのほうはどうだ」 「ところが、こっちのほうはだいぶん変わっているんで」  福之助は四郎兵衛の妹の子だが、両親がおさないときに亡くなった。自火をだして、同時に焼死したのである。両親がそういう悲惨なさいごをとげたものだから、福之助はその菩提《ぼだい》を弔うため、寺へはいって寺小姓になっていた。いくいくは髪そりこぼって、あっぱれ善知識になる予定だったのである。  ところが、四郎兵衛に子どもがないところから、福之助を寺からよびもどして、跡目とさだめたのである。 「ほほう、そいつはちょっと変わった身のうえだな。それで、福之助が寺小姓をしていた寺というのは……?」 「下谷の林泉寺という真言の寺だそうですが、その林泉寺について、おもしれえ話があるんです」  辰と豆六がこもごも語るところによると、林泉寺の納所坊主に随念というのがいたが、そいつが檀家《だんか》の後家と通じていることがばれ、去年の春、傘《からかさ》一本で寺をおわれたそうである。 「それいらい、随念のやつ、すっかり法界坊もどきの破戒坊主になりはてて、夜鷹《よたか》はかう、舟まんじゅうはだくで、いまやならずものの仲間入り、わるいことばっかりやってるそうです」 「辰、豆六、ひょっとすると、瘤寺《こぶでら》の和尚《おしょう》というのは、その随念じゃねえのか」 「いや、それはちがうようです。瘤寺の鉄牛にゃ大きな瘤があったということですが、随念にゃ瘤なんかなかったそうで」 「親分、ひょっとすると、にせ鉄牛ちゅうのんがその随念とちがいまっしゃろか」 「なるほど。で、その随念という坊主のいどころは……?」 「なんでも、本所か深川あたりの古寺にもぐりこんでるって話ですが、くわしいことはわかりません。しかし、ここまでわかってるんですから、調べるのにそれほど骨は折れますまいよ」 「親分、なんならその寺をさがしてみまほか」 「うん、ご苦労でもそうしてくれ」 「よし、それじゃ豆六、善はいそげだ。これからさっそく出向こうじゃねえか」  岡《おか》っ引《ぴ》きの子分は、しりがかるくなければつとまらない。辰と豆六がとび出していったあと、佐七はあらためてかんがえてみる。  いったい、この事件は、どこをどのようにたどっていったらよいのか、さっぱり見当がつかない。  布袋屋の四郎兵衛がすくってきた狂女と、瘤寺の和尚、そこにどういう関係があるのか。また、瘤寺の和尚とぼたん屋敷、そのあいだにどのような因縁がからんでいるのか。さらにまた、あやしい関係にむすばれているぼたん屋敷のはなれの男と女。かれらもまた、この事件に関係があるのかないのか……。  さすがの佐七も五里霧中、まるで雲をつかむような気持ちだったが、その夜おそくなって、表からとびこんできたのはうらなりの豆六だ。  古寺の緋《ひ》ぼたん娘   ——随念のかわりに瘤和尚《こぶおしょう》の鉄牛が 「親分、わかった、わかりました。随念の寺がわかりましたよ」 「なに、随念の寺がわかったと。そして、随念はいまそこにいるのか」 「それがけったいな話で。随念のすがたはみえまへんが、そのかわり、思いがけないやつがはいりこんでまんねん」 「思いがけないやつとはだれだ」 「鉄牛だすがな」 「なに、鉄牛が……?」  佐七はおもわずつばをのんだ。 「さよさよ、兄いもわても、鉄牛に会うたことおまへんさかい、たしかにそうとはいいきれまへんが、首に大きな瘤《こぶ》があるところをみると、あらきっと鉄牛にちがいおまへん」 「それで、辰はどうしているんだ」 「兄いは寺をみはってます。親分がおみえになるまでは、手を出さんほうがええやろとひかえてまんねん」 「よし、それでは案内しろ」  このごろの天気ぐせとして、空はひくくたれて雲脚の速いところをみると、そのうちバラバラくるかもしれない。 「ところで、豆六、その古寺にいま、鉄牛ひとりしかいねえのか」 「へえ、そうらしおます。なにしろ、えらい荒れようで、ながいこと無住になっていたのを、これさいわいと随念のやつが住みつきよったらしい。それをきいたもんだっさかいに、兄いとふたりでいてみたら、随念のすがたはみえずに、首に大きな瘤のあるやつががんばってまっさかい、すっかり肝をつぶしてしまいましてん」  佐七はいよいよわけがわからなくなった。そうすると、鉄牛と随念はなかまなのだろうか。 「豆六、その寺というのはまだ遠いのか」 「いえ、もうじきだす。弥勒寺橋《みろくじばし》のすぐむこうで……」  まもなくふたりは弥勒寺橋へさしかかったが、そのときかれらを追いぬいて、スタスタまえへでた駕籠《かご》がある。駕籠のそばには男がひとりつきそっているが、編《あ》み笠《がさ》をかぶっているので顔はわからない。  佐七はべつに気にもとめずに、豆六が歩くままに駕籠のあとからついていったが、まもなくその駕籠は、一町ほどむこうのくらい門のなかへ消えていった。  豆六はギョッとしたように立ち止まり、 「お、親分」 「豆六、どうかしたのか」 「いま、駕籠のはいっていったのがその寺だっせ」 「えっ!」  と、豆六をふりかえった佐七の頭に、そのときさっとひらめいたのは、瘤寺のそばの荒物屋でおかみさんに聞いたことばである。  瘤寺から鉄牛をつれだしたのも、編《あ》み笠《がさ》をかぶった男であったという。いま駕籠わきについていた男も、おなじような編み笠をかぶっていたではないか。 「よし、豆六、いそごう」  足をはやめてやってくると、いかさまそこは寺の門。しかも、ひどい荒れようで、破戒坊主が巣くうにはおあつらえむきの場所と思われた。  ふたりがあたりを見まわしているところへ、寺のなかからくろい影がとび出してきた。 「親分ですか」 「おお、辰か、ご苦労。ときに、いまこの寺へ、駕籠が一丁入ってきたろう」 「へえ、それがどうもおかしいんで。駕籠のなかからでてきたのは、どうやら女のようでした」  かたるそばから豆六が、 「しっ、親分、駕籠屋がでてきましたぜ」 「よし、かくれてろ」  三人がかくれているところへ、逃げるように駕籠屋がなかからとび出してきた。 「兄い、はやくいこう。おらアなんだか気味がわるくなってきた」 「そうよなあ、ずいぶんひでえ荒れ寺だ。それに、あの坊主はどうだえ。大きな瘤があってさあ。うすっ気味わるいったらありゃしねえ」  と、逃げるように走っていく駕籠屋を、小半町ほどやりすごして、佐七はうしろから声をかけた。 「待て、待て、駕籠屋、ちょっと待った」 「ひえっ!」  と、駕籠屋は腰をぬかさんばかりの声をたてたが、佐七の風体をみると安心したのか、 「へえ、あの、なにか御用で」 「おまえたち、いまの客をどこからのせてきた。途中でひろったのか、どこかへ呼びこまれたのか」 「へえ、あの、深川の六間堀《ろっけんぼり》からで。から駕籠かついでとおりかかったところを、あの編み笠のだんなに呼びとめられ、すぐその近所の家からあの娘さんをのっけてきたんで」 「あの娘はどういう女だ」 「さあ、どういうひとかしりませんが、お気の毒に、どうやら気がふれているようです」  それをきいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  駕籠屋から、その家と、駕籠屋の住所や、名前をきいてかえすと、三人はその足で、もとの古寺へとってかえした。 「親分、キ印の娘というのは、布袋屋のだんなが旅先からひろってきた緋《ひ》ぼたん娘じゃありますまいか」 「おれもそう思うんだが、そうすると、さっきの編み笠はなにものだ。緋ぼたん娘のいどころをしっているのは、布袋屋のだんなしかいねえはずだが……」 「とにかく、忍びこんでようすをみましょうよ」  寺のなかへふみこむと、庫裏とおぼしいあたりから、チラチラ灯影がもれている。それを目当てにしのびよると、さいわい、おあつらえむきの荒れ寺だから、いたるところにすきまがある。そのすきまからなかをのぞいた三人は、おもわずギョッと目をそばだてた。  ほの暗い行灯《あんどん》の影に三人の人間がうずくまっているが、ひとりは鉄牛にちがいない。首に大きな瘤《こぶ》のあるいがぐり坊主が、片ひざ立てて、まじろぎもせず、ひとみをこらしている。  その坊主のまえにうつぶせになっているのは女だが、もろ膚をぬがされて、とけた黒髪がからすへびのように破れ畳のうえをはっている。  ほかにもうひとり、行灯のそばに立って、いがぐり坊主と女の背中を見くらべている人物がいるが、行灯の光のそとにいるので、顔かたちはよくわからない。 「行灯の灯をもっとこちらへ」  いがぐり坊主がひくい声でささやいた。 「おお」  と答えて、立っている男が行灯をまえへ押しやった。すると、いままで暗くてよくみえなかった女の背中が、はっきりそとからのぞかれたが、そこにはみごとな緋《ひ》ぼたんが、色あざやかに花を咲かせているのである。 「どうです。おわかりになりましたか」  立っている男がささやいた。 「ふむ、わかったような、わからぬような」 「とおっしゃるのは?」 「ここに彫与之作とあるからには、たしかに英栄之助《はなぶさえいのすけ》の作にちがいないが、さて、この彫り物がどういうなぞか、それが拙者にはわからない」  それは法界坊もどきの、いがぐり坊主などの口にすべきことばではない。たしかに武士の口調である。 「おわかりになりませんか。もし、そのなぞが解けぬとすれば、英さまのご苦心も水のあわになりまする。もし、鵜飼《うがい》さま、なんとか知恵をおしぼりくださいまし」 「それは、そなたにいわれるまでもない。しかし、この彫り物だけでは……四郎兵衛どの」  四郎兵衛ときいて、辰と豆六がおもわずあっともらした叫びに、おどろいたのはなかのふたりだ。  立った男がふっと行灯を吹き消すと、 「だれだッ」  どなったのは鉄牛である。  解ける糸なぞの緋《ひ》ぼたん   ——緋ぼたんは緋ぼたんでも花札のぼたん  こうなったら、なまじ逃げかくれしないほうがよかろうと、 「いや、失礼いたしました。怪しいものじゃございません。あっしゃお玉が池の佐七というもの。そこにいらっしゃるのは、布袋屋のだんなじゃございませんか」  声をかけると、いっときなかはシーンと静まりかえった。それからボソボソ低いささやきがきこえていたが、やがて行灯《あんどん》に灯がはいると、 「いや、こちらこそ失礼。どうぞこちらへ」  と、破れ雨戸をひらいたのは、なんと、永代橋から水葬礼にされたはずの四郎兵衛ではないか。佐七はしかし、そんなこととはしらないから、さのみ驚きもせず、なかへ通ると、 「布袋屋のだんな、思いがけないところでお目にかかります。だんなのおすがたがみえねえので、おたくじゃ大騒ぎをしておりますよ」 「いや、心配をかけてすまない。ちと思うしさいあって、当分姿をかくしていようと思ったまで。親分はわたしのことをどうしてご存じで」  そこで、佐七が重兵衛にたのまれたいきさつから、お柳さまや福之助が心配していることをうちあけると、 「いや、みんなに心配かけているとは思ったが、じつは、親分、こういうわけでな」  と、四郎兵衛はそこで、にせ鉄牛におそわれたいきさつを手短に語ってきかせると、 「そういうわけで、しまいにはその坊主と大立ちまわりとあいなった。行灯は消えて真のやみ、そのくらがりのやみ試合、あっちも必死ならこっちも必死。ところが、さいわい、こっちのほうが強かったんですな」  今助六の名のたかい布袋屋四郎兵衛、わかいときから柔ら、剣術にきたえたからだは筋金入り。骨太の、たくましい腕や腰、それに、男振りもまんざらでないとあっては、こういう男に夜っぴてだかれて女にしてもらったお柳さまが、としのちがいもなんのその、のぼせあがったのもむりはない。 「わたしが馬乗りになり、のどをしめると、坊主のやつ、いくじなくも気をうしなった。そこで、わたしはさるぐつわをはめ、うしろ手にしばりあげて、袋につめこみ、やみをさいわいのつくり声で、なかまの連中をあざむいて、まんまとその袋詰めをわたしたんです」  と、四郎兵衛のかたる話に、佐七は目をまるくして、 「なるほど、そいつは危ないところでしたが、すると、坊主のやつがだんなの身代わりに水葬礼にされたので」 「いや、親分、わたしもそれほど無慈悲な男ではない。それに、そのまま坊主を殺しちまっちゃ、身もふたもない。そこで、わたしはさきまわりして、永代橋のしたへ舟をだして待っていたんです。そこへ投げこまれたのが袋詰め。いったんぶくぶく沈んだが、やがてまた浮かびあがってきたところを舟のうえへひろいあげ、命だけはたすけてやりましたよ」 「なるほど、それで、その坊主が随念なんですね」 「よくお調べだな。いかにも随念という坊主でした。そこで、随念をしめあげてここのすまいを白状させると、しばらくかくれていようと思ったんです」 「そりゃまたどうして……?」 「親分も番頭の重兵衛からおききおよびのことと思うが、ちかごろわたしの身辺には、あやしいことの絶えまがない。だれかわたしのもくろみ……つまり、この緋《ひ》ぼたん娘を種にして大仕事をもくろんでいるのに気がついたやつがあるらしいんです」 「なるほど、それで……」 「おそらく、そいつは、わたしにとってかわってこの大仕事をやってのけようという腹なんだろうが、まさかわたしは命までねらわれようとは思わなかった。こうなるとゆだんは禁物。さいわい、むこうはこのわたしを死んだものと思いこんでいるにちがいないから、しばらく姿をかくしてようすをみようと思ったんです」 「それで、随念という坊主はどうしました」 「さあ、それよ」  四郎兵衛は顔をしかめて、 「初手はあの坊主が首領だとばかり思っていた。しかし、あいつは首領ではなく、たんなる手先にすぎないらしい。あいつの背後には、もっともっと大物がひかえているようだ」 「その大物というのは……?」  聞きながら、佐七は辰や豆六に目くばせした。  どうやら、四郎兵衛はまだその随念を、福之助とおなじ寺にいた坊主だとは気がついていないらしい。おそらく、これは偶然なんだろう。まだはたちにもならぬ福之助が、そんな大望を抱くはずはない。 「ところが、あいつも強情なやつで、なかなか白状しおらぬ。そこで思いついたのが、袋詰めをかついでいったふたりの男、金太と銀造というのだが、ふたりの問わず語りをきいたところでは、本所割り下水の跡部屋敷というのが、連中の巣になっているらしい」 「本所の割り下水、跡部屋敷ですね」  佐七は懐紙にしたためた。 「そこで、跡部屋敷というのへさぐりをいれてみたが、そこの中間部屋が賭場《とば》になっていて、よからぬ連中があつまってくるのだが、随念坊主とはただそれだけのしりあいで、だれもこの寺はしらないらしい」 「それで、金太と銀造はどうしました」 「風をくらって、すがたをくらましてしまいました。随念が消えちまったので、身に不安をかんじたんでしょう」 「なるほど、それで……?」 「しかし、随念をあやつる大物なら、ここをしらぬはずがない。だから、いつかはここへあらわれるだろうと、こうして網をはっているのだが……」 「まだあらわれませんか」 「うむ、よっぽど用心ぶかいやつらしい」 「それで、鉄牛さんはどうしてここに……?」 「いや、あのままほっておいたら、こちらも危ないのではないかと思ったのと、ひとりでは網を張りきれないので、お手伝いをしていただこうと思ったのでな、今戸の寺からこちらへおつれしましたのさ」 「いや、よくわかりました。それで、随念はいまどこに……」 「そとの土蔵の地下に、穴蔵がひとつしつらえてある。みそ蔵じゃな。そこへさるぐつわをはめ、きびしくしばって投げこんである」 「なるほど。それじゃあとでゆっくり取り調べることにして……」  と、佐七はそこで鉄牛のほうへふりかえると、 「鉄牛さん、いや、たしか鵜飼《うがい》さんとかおっしゃいましたね。その鵜飼さんが、いったいどうして……」  ほんものの鉄牛は、にせ鉄牛の随念よりははるかにわかく、としは三十五、六、瘤《こぶ》こそあれ、随念ほど不潔ではなかった。 「いや、佐七とやら、そのほうも御公儀に御奉公する身。このことかならずともに他言無用に」  一本くぎをさしておいて、さて、鉄牛がかたるところによるとこうである。  かれは鵜飼鉄之助といって、幕府のお庭番であった。  お庭番というのは、吹上御苑《ふきあげぎょえん》のお庭番ということになっているが、これはほんの表向きで、かれらのほんとうの奉公のまことをつくすところは隠密《おんみつ》である。すなわち、諸侯の動静をさぐるため、名をかえ、姿をかえ、その領内へはいりこんで、ひそかに内情をさぐるのである。  これらの命令は、じきじき将軍家みずからくださるので、命をうけたお庭番は、自宅へかえることもゆるされず、そのまま旅立たねばならない。しかも、これらはあくまでも隠密のうちにおこなわれるので、隠密の身になにかまちがいがあっても、幕府ではなんの手のほどこしようもなかった。  したがって、諸侯のほうでも隠密がはいったとしると、草の根わけてもさがしだし、情け容赦なく殺した。  さて、鵜飼鉄之助がこのたびうけた隠密の対象というのが、すなわち、松野|右京太夫《うきょうだゆう》の家中である。岩戸藩はまえにもいったとおり三万石の小藩だったが、それにもかかわらず、内緒のあまりにもゆたかなのが幕府の疑惑の的となった。  九州西岸という地勢を利用して、ひそかに抜け荷買い、すなわち、密貿易をやっているのではないかという疑惑がまえからもたれていた。  そこで、お庭番二名に、岩戸藩の内情をさぐるよう命がおりたが、そのひとりが鵜飼鉄之助であり、いまひとりが英栄之助だった。 「しかし、拙者はことのとおり大きな瘤のある身、他国にあってはとかく注意をひきやすく、松野家の領地へおもむくのは英栄之助ひとりということにして、拙者は岩戸藩の下屋敷のとなりが無住の荒れ寺となっていたのをさいわいにそこに住みつき、ひそかにようすをうかがいかたがた、英からのたよりを待っていたのだ」  まえにもいったとおり、お庭番にはいつ隠密の命がくだるかわからないので、その場合に処するために、めいめい芸を身につけていた。絵をならって旅絵師になるもの、謡の修行をしておいてその師匠にばけるもの、いろいろあるなかに、英栄之助は彫り物の修行をしていたので、このたびの隠密行《おんみつこう》にも、旅の彫り物師、彫与之《ほりよの》と名乗っていた。  こうして英栄之助の彫与之が江戸を出発してから一年になる。  鵜飼鉄之助の鉄牛は、光円寺へ住みこんで下屋敷の動静をさぐりながら、同僚からのつかいをまっていたが、その第一信は三月ほどまえにきた。  それによると、松野藩では抜け荷買いの品を、年にいちど、船で江戸表の下屋敷へおくっているらしい。抜け荷買いの品は、珊瑚《さんご》、鼈甲《べっこう》、玳瑁《たいまい》の類で、それらを大量につんだ船は、文字どおり宝船だった。  そういう船がちかく出発するらしいから、江戸へ到着する日がきまったら一報する。そのせつ、うむをもいわせずとりおさえたら、万事かんたんにかたづくだろうとあった。 「なるほど。すると、この娘が生身をもって文がわりになったのでございますね」  佐七はあやしく目を光らせながら、 「しかし、鵜飼様、あなたはその英様がその後どうなったか、ご存じじゃありませんか」 「さあ、そのことじゃて。このような思いきった手段を用いたところをみると、身辺が危うくなっているのではないかと、それが案じられてならぬのじゃが……」  あやうくなっているどころではない。あの檻《おり》のなかの男こそ、英栄之助にちがいない。  かれは隠密であることを看破され、松野の家中のものに捕らえられたのだろうが、ひとおもいに殺されるかわりに、男としてこのうえもない屈辱をなめさせられているのである。  しかし、佐七はそれをいわなかった。いうに忍びなかったのである。  鉄牛のほうでもいわなかった。まさかのときの用意にと、瘤寺から下屋敷まで抜け穴が掘ってあるということを。だから、佐七はその点にもふれなかった。  それよりも、問題はこの彫り物のなぞである。  佐七は行灯《あんどん》の灯をちかよせて、あらためて無心の狂女の背中に彫られた緋《ひ》ぼたんの彫り物に目をやったが、その目はしだいに熱をおびてきた。  その緋ぼたんは、おなじ緋ぼたんでも、花札のぼたんであった。いわゆる青短というやつで、げんに青い短冊も彫り込まれている。  しかし、それがすこしおかしいのは、さいしょ彫り物師が意図したものは、たんに華麗な緋ぼたんを彫ることにあったらしい。それが、緋ぼたんを彫りあげてからきゅうに気が変わって花札にしたらしく、そのために、全体の構図がきゅうくつになっているのみならず、画面がきたなくなっている。中央に彫られたぼたんが、精巧に、かつ、ていねいに彫られているのにはんして、あとから彫りくわえられたとおぼしい花札のわくや短冊は、彫りかたがざつで、せっかくの美麗な緋ぼたんを台なしにしている。  この彫り物師は、なぜそんなおろかなことをしなければならなかったのか。 「辰、豆六、花札のぼたんは、たしか六月だったな」 「親分、ほんならこの彫り物、抜け荷買いの船が江戸へ着く日をおしえとんのとちがいまっしゃろか」  こんなことになると、豆六のほうがばんじ辰より血のめぐりが早いのである。 「あっ!」  と、鉄之助と四郎兵衛が異口同音に声を発して、 「六月といえば今月だが、してして、今月の何日だろう」  佐七はしばらく彫り物をにらんでいたが、やがてにが笑いをすると、 「豆六、こういうことはてめえが得意だ。ひとつ、こちらのだんながたのために、日をさがしてあげろ」 「へっ」  と首をすくめた豆六は、なめるように彫り物をながめていたが、やがて鉄之助をふりかえると、 「鵜飼のだんな、だんなはまえに彫与之さんの彫り物を見やはったことおまっか」 「それはたびたび……江戸でも、けいこのために彫っていたからな」 「ほんなら、おたずねいたしまっけど、彫与之さん、いつもじぶんの名前をこうして枠《わく》でかこうていやはったんでっか」 「どれ、どれ」  と、鵜飼鉄之助ものぞきこんだが、なるほど、彫与之と彫った名前の周囲が、三重の線でかこってある。 「いや、わしがいままでみたところでは、いつも名前が彫りっぱなしになっていたが……」 「ほんなら、この枠になにかなぞがあるのんちがいまっか」 「この枠になぞとは……?」 「三重の枠だっさかいに、三十のなぞ、つまり六月の三十日、すこしヤマカンみたいだっけどな」 「いいや、ヤマカンじゃねえ。そうだ、それにちがいねえ。三十日といやァやみの夜だ。親分、晦日《みそか》のやみにまぎれて宝の入り船、きっとそれにちがいありませんぜ」  と、辰もにわかに勇みたった。 「なるほど、かたじけない。そうわかったら……」  鉄牛の鉄之助もひざのりだした。どうやら、だれも豆六のヤマカンに異議はないらしい。 「それでは、首尾よくおやりくださいまし。それにしても、かわいそうなのはこの娘。こんな彫り物をさせて、みずから使者に立ったところをみると、英様とはよほどふかいなかとみえますが……」  その英栄之助はあさましい人身御供《ひとみごくう》。それともしらず、その狂女は、あいかわらずうつろの目をみはって、もろ膚ぬいだたもとを無心にいじくっているのがいじらしい。  佐七はいたましげにそれから目をはなすと、 「いや、話がながくなりましたが、それじゃ布袋屋のだんな、穴蔵にいる坊主というのを、ひとつ絞めあげようじゃありませんか」  しかし、その穴蔵に随念のすがたはみえなかった。風をくらって遁走《とんそう》していた。しかも、みずからなわ抜けをしたのでない証拠に、みそ蔵の柱にしばりつけてあったふとい綱が、鋭利な刃物で断ちきられているのである。  一同が話に夢中になっているあいだに、だれかがここへしのびこんで、随念をたすけだしていったのである。しかし、それはいったいだれなのか、四郎兵衛のいわゆる随念の背後にあってあやつっている大物なのだろうか。  いずれにしても、佐七をはじめ辰と豆六が、地団太ふんでくやしがったのもむりはない。  四郎兵衛とお柳さま   ——乱れに乱れて絶えいるばかりに  豆六のヤマカンはあたった。  その月の三十日の夜更け、今戸河岸では、前代未聞の大捕り物があった。やみをついて、隅田川《すみだがわ》をこぎのぼってくる数隻の小舟は、今戸河岸までくるとそれに倍する小舟にとりかこまれ、かたっぱしからとりおさえられた。  それからまもなく、松野家がおとりつぶしになったことはいうまでもない。  鉄牛の鵜飼鉄之助が掘った抜け穴からは、鉄之助をはじめとして、佐七や辰や豆六、それに四郎兵衛もいっしょにしのびこんだが、あのはなれのひと間をのぞいたとき、一同は慄然《りつぜん》として立ちすくんだ。  檻《おり》のなかには、女と男が折りかさなってたおれていた。芳香院はさいごの冒涜《ぼうとく》を男にくわえたのち、男を刺しころし、じぶんも胸をつらぬいて死んだのである。  衣類をまとうひまがなかったのか、ふたりとも一糸まとわぬはだかであった。ことに、英栄之助が、このあいだ佐七がかいまみたときそのままのすがたで胸をえぐられているのが、凄惨《せいさん》をきわめた。  一同はおもわず目を閉じたが、これが隠密《おんみつ》という危険な任務に従事するものの宿命だったかもしれない。  こうして、目算御殿のあるじの目算はみごとにはずれてしまったが、かれはべつに失望もしなかった。商人であるかれが米銭を愛するのは当然だが、かれはそれいじょうに冒険を好んだ。いまのことばでいえば、スリルを愛するのである。  この一件でかれはじゅうぶんスリルを満喫できたのだから、その意味でかれは満足だった。  ただ、佐七がふしぎに思ったのは、随念をあやつる一味が四郎兵衛のいうがごとき大仕掛けのものだったとしたら、なぜあの捕り物の場にあらわれなかったのだろう。隅田川口から今戸まで、そうとう距離がある。御公儀の舟があらわれるまえに、なぜ出現して宝をよこどりしようとしなかったのか。  こうして、この一件も、随念の失踪《しっそう》という事実と、佐七の胸にやどった多少の疑惑をのぞいては、いちおう落着したかにみえた。  げんに、四郎兵衛もすっかりしりが落ちついて、昼は商売に身をはげみ、夜は毎晩のように駒形《こまがた》へでむいてお柳さまをかわいがった。  目下の四郎兵衛のなやみは、三番目の妻をむかえるか、どうかということである。家に一家の主婦がいないということは、不自由千万だった。しかし、いっぽう、四郎兵衛は日増しにお柳さまがかわいくなるばかり。  四郎兵衛はこのとしになるまで、ふたりの妻のほかに、おおくの女をしっていた。めかけとしてかこった女も二、三ある。わかいときから、あまりおおくの女に接したので、子ダネが切れたのだと、あきらめているくらいである。  しかし、お柳さまのような女はいままでになかった。お柳さまのからだは、いままで四郎兵衛が抱いたどんな女よりも、はるかに弾力性にとんでいた。四郎兵衛が力いっぱい抱きしめてやると、お柳さまのからだは、どこまでも収縮していった。それは、四郎兵衛の息がつまるくらいであった。  しかも、跳ねっかえりがまたすばらしかった。この収縮と跳ねっかえりの微妙なかねあいのなかに身をひたして、四郎兵衛はとしがいもなくたけり狂う。そしてまた、四郎兵衛がたけり狂えば狂うほど、お柳さまのからだの弾力性は、いよいよ精妙をきわめるのである。  そのうえ、お柳さまは四郎兵衛に自信をもたせた。まだはたちになるかならぬかの若さでいながら、お柳さまはこの親子ほどとしのちがう四郎兵衛を、男としてまたなきものと思っているらしい。二十貫をこえる四郎兵衛の巨体につつまれると、お柳さまはわれにもなくみだれにみだれて、絶えいるばかりに嗚咽《おえつ》しつづけ、はては四郎兵衛の腕のなかで感きわまって失神することさえある。  それでいて、ふだんのお柳さまは慎みぶかく、女ひととおりのたしなみはあり、そのうえおっとりした気性なので、どこの大家のお内儀としても恥ずかしくないのだが、なんといってもとしが若すぎると、それがちかごろの四郎兵衛の悩みのたねで、あの一件のことなど、とっくのむかしに忘れていた。  佐七も佐七で、多少の心残りはあるものの、去るもの日々にうとしのたとえ、いつまでもあの一件にこだわってはいなかった。  ところが、あの大捕り物があってからひと月ちかくたった七月の末に、お玉が池へたずねてきたお高祖頭巾《こそずきん》の女があった。  こちらの親分さんにお目にかかって、ぜひ密々にお願いいたしたいことが……という口上に、お粂がうえへあげると、なんとそれはお柳さまであった。  お柳さまは着やせするたちで、たくみにきものをきこなしているとすらりと姿のよくみえるたちだが、いまは薄物の季節である。そんな細工もむつかしく、薄物のしたにうずいているむせっかえるような肉付きの充実が、みる目にもまぶしいようである。  それでいて、目のしたに青いくまができていて苦労ありそうな顔色に、佐七はまた目算御殿の主人がなにか謀反をくわだてているのではないかと尋ねてみると、 「いいえ、そうではございません。だんなさまはちかごろいたって神妙にしておいでなさいますが、いろいろ気がかりなことがございまして……」 「気がかりなこととおっしゃいますと……?」 「親分さん、あの一件は、もうすんでしまったのでございましょうか」 「あの一件とおっしゃいますと……?」 「いつかの水葬礼の一件でございます」  佐七ははっとひざのりだすと、 「あの一件について、ちかごろなにかまた……?」 「だんなさまは、あの一件とはなんの関係もない、ただの災難だとおっしゃいますけれど、わたしゃなんだか気がかりで……それで、だんなさまにもないしょで、ご相談にあがったのでございます」 「いったい、どんなことがございましたので……」 「はじめはいまから十四日まえ、今月の十六日の晩のことでございます。だんなさまがわたしのほうへおみえになっておりました」 「お宅はたしか、駒形《こまがた》でございましたね」 「はい、駒形堂のすぐちかくでございます」 「それで……?」 「その晩、だんなさまは泊まっておいでになるおつもりでございました」 「それで……?」 「あれは夜の四つ(十時)ごろのことでございました。蔵前のご本宅から、福之助さまが丁稚《でっち》の長吉さんをつれて駕籠《かご》でだんなさまをお迎えにおいでなさいました。なにか、きゅうにご用がおできになったとやらで……」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「だんなさまはすぐその駕籠でおかえりになりましたが、その駕籠が、天王町と、旅籠町《はたごちょう》のあいだに橋がございます、橋といってもながさ五間ほどの橋でございますが、その橋がいま普請中でございまして、すぐそばに仮橋がしつらえてございます。ところが、だんなさまをのせた駕籠が、その仮橋のなかほどまでまいりましたところ、きゅうにメリメリと橋桁《はしげた》がめりこんで……」 「それで、だんな、川のなかへ……?」 「いえ、それがおちていれば、大けがをなさいましたか、とんだことになっていたかもしれません。げんに、先棒のかたはおちこんで、ひどいけがをなすったとか……」 「それで、だんなは……?」 「はあ、それが……後棒のかたもおもわず肩から棒をおとしてしまったのですが、ちょうどよいあんばいに、まえの棒とうしろの棒が落ちのこった橋桁にひっかかって、だんなさまをのせた駕籠は、橋からななめに宙づりになったそうでございます」 「それは……」 「だんなさまはすんでのことに、駕籠からそとへほうり出されるところだったそうでございますが、さいわいつり綱をしっかり握っておいでなさいましたので、お助かりになったのだそうでございます」 「それで、どなたがだんなを助けあげたんです」 「それは後棒さんでございます。福之助さんと長吉さんは、駕籠のさきへ立って、もうすでに橋をわたっていられたそうで」 「それで、おけがは……?」 「はあ、さいわいかすり傷ですみました。お召し物はだいぶあちこちかぎ裂きがおできになっていたようでございますが」 「それで、おまえさまはそれをどうお思いで……?」 「いいえ、わたしどもにはわかりません。ただ、その翌日、長吉さんがきてその話に、びっくりしてしまいまして……長吉さんもふしぎがっていましたが、わたしどものほうへくるときも、その橋を渡ったのだそうでございます。そのとき、すぐまえを、石をいっぱい積んだ荷車が渡っていったのだそうで。あんな重い車がぶじに通れたのに、なぜ、だんなのときに橋が落ちたのかと……」 「それじゃ、そのあとでだれかが橋に細工をしたというんですかえ」  と、きんちゃくの辰は身をのりだした。 「はあ、こんなことを申しますと、だんなさまにしかられますけれど……」  お柳さまはしもぶくれのゆたかなほおに、たよりなげな微笑をきざんだ。 「そやけんどなあ、おかみさん、それ、すこし思いすごしやおまへんか」 「とおっしゃいますと……」 「その橋渡るのん、だんなだけとはかぎらしまへんやろがな。もし、ほかの駕籠がとおったら、やっぱりおんなじめえに会うとったかしれまへんで」 「はあ、でも、うちのだんなさまのように大きなからだをなすったかたは、そうたくさんはいらっしゃらないと思います」 「そうそう、だんなは二十貫はおありでしょうね」 「いま二十二貫おありでございます。まるでお相撲さんのようなおからだで……」  といってから、お柳がポーッとほおをそめたのは、その巨体からくるある連想が、おもわず彼女の脳裏をかすめたからであろう。  随念一味の残党   ——その後かさなる四郎兵衛の危難 「それで、ほかにもなにか……」  佐七があとをうながすと、 「はあ、おとといの晩、またへんなことがございまして……」  おとといは七月二十八日である。旧暦で七月の末といえば、現今の八月下旬にあたっており、いわゆる盛夏の候である。  四郎兵衛はお柳さまをさそって、柳橋の舟宿から涼み船をだした。屋形船の客となったのは、四郎兵衛とお柳さまのほかに、福之助がつきあった。  舟宿から船をこぎだしたのは、涼風のたちそめる五つ(八時)ごろのことだったが、屋形船は両国橋からかみてのほうへこぎのぼった。  ところが、船が両国橋と吾妻橋《あずまばし》とのなかほどまできたとき、むこうから矢のようにやってきた猪牙舟《ちょきぶね》が、こちらの屋形船の横っ腹に、どしんとばかりぶつかった。 「そのとき、わたしはなにげなく、むこうの船頭を見たのでございますが……」  お柳はそこで息をのんだ。 「なにかごらんになりましたか」 「いえ、あのだんなさまは気のせいだとおっしゃいますが、ぶつかったひょうしに、船頭のかぶったほおかぶりがとけて、頭がはんぶんみえたのですが、それがなんだかいがぐり頭のような気がして……」 「お柳さま、それはたしかでございましょうね」  佐七がひざをのりだした。 「いえ、あの、はっきりそうとは申せません。いがぐり頭をみたと思ったそのとたん、船がぐらりとかたむいて、わたしは船底へ突っぷしてしまいましたから」 「なるほど。それで……」 「やっとからだをたてなおして、もういちど屋形船からのぞいたときは、もう猪牙舟はだいぶむこうへいっていました」 「なるほど。それで……?」 「そのときは、船がぐらっと大きくかたむき、船頭どうしが口ぎたなくやりあったくらいですんだんですけれど、それからまもなく、たいへんなことが起こりまして……」 「たいへんなこととおっしゃいますと……?」 「とつぜん、船底からいっときに三カ所も水が吹きあげてまいりまして、船のなかは大騒ぎ、福之助さんなんかあまりあわてて川のなかへ落ち、すんでのことにおぼれ死になさるところでございました」  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。お粂もそばからひざをすすめて、 「それで、お柳さま、屋形船は沈んでしまったのでございますか」 「いいえ、すっかり沈んでしまいはいたしませんでした。それでも、舷《ふなべり》のはんぶんくらいのところまで水につかってしまいましたから」 「それはまあ危ないところでございましたが、みなさまおけがは……?」 「はい、ちょうどさいわい、時刻が時刻でございましたから、あたりにたくさん涼み船が出ておりました。そのかたがたがよってきてお助けくだすったのでございます」 「それで、川へおちた福之助さんは……?」 「だんなさまがとび込んでお助けなさいましたが、だいぶん水をのんでいられたようで……そういうさわぎで、みんながまごまごしているうちに、水がどんどん吹きあげてまいりまして……」 「しかし、そうすると、だんなは泳ぎがお達者なんでございますね」 「はい、あのかたは武芸十八番、なんでもひととおりはおできになるんじゃございませんか」 「お柳さま、あなたさまは泳ぎは……」 「わたしは女でございますから……」 「それじゃ、そのあなたさまをさしおいて、福之助さんを助けにとび込まれたとすると、だんなはよくせき福之助さんをかわいがっていらっしゃるんでございますね」 「それはもう、目のなかへいれても痛くないほど……」  お柳さまの口調があまり淡々としていたので、彼女が福之助にたいしてどういう感情をもっているのか、その顔色からではわからなかった。 「それに、だんなさまは、よもや船が沈むようなことはあるまいと、分別をつけていらっしゃったのでございます。げんに、船からとび込むときも、しっかりしておいで、騒ぐとかえってあぶないからと、わたしを勇気づけてくださいました」 「それにしても、どうしてそんなことになったんで。だんなはそれについてなにか……?」 「はあ、以前から船底にヒビがはいっていたのを、あの猪牙舟にぶつかったはずみに、そこがきゅうに痛んだんだろうと……」 「いったい、その舟宿はどちらさんで」 「柳橋の井筒さんでございます」 「べらぼうめ、そんなばかな」  と、がぜんがなりだしたのはきんちゃくの辰。辰は以前井筒で船頭をしていたことがある。 「井筒といやァ、柳橋でも一といっても二とはさがらぬ舟宿だ。猪牙の一隻や二隻ぶつかったところで、船底にヒビの入るようなオンボロ船をつかうはずがねえ」 「そやそや、こら兄いのいうとおりや。親分、こらやっぱり、だんなを水葬礼にしようとした一味の残党が、だんなをねろとるのんにちがいおまへんぜ」 「しかし、豆六、なぜあの一味の残党が、いまだにだんなの命をねらわなきゃならねえんだ」 「親分、あの一味は松野藩の抜け荷買いの舟を、ごっそり横取りしようとしていたんだ。それを、布袋屋のだんなにじゃまだてされ、御公儀へそっくり持っていかれたもんだから……」 「そやそや、それを根にもちよって、だんなに返報しようとしてるにちがいおまへん」 「親分さん、わたしがそれを申しますと、だんなさまはたいそうごきげんが悪うございます。なにもかも回りあわせだ、災難だと、いっこう取りあってくださいませぬ。なにしろ、あのとおり腹の大きなおかたでございますから。それで、きょうこうして、だんなさまにもないしょで、お願いにあがったのでございます」  と、そこへ手をついたお柳さまのあでやかな豊頬《ほうきょう》には、ありありと危懼《きく》と不安がきざまれていた。  二人組金太と銀造   ——こうなったら骨が舎利になっても  佐七も六月三十日の大捕り物ですべてがおわったとは思っていなかった。なにか心にひっかかるものが残っていた。だから、お柳さまにたのまれると、もういちどこの一件をむしかえしてみる気になった。  むしかえすといっても、手がかりはただひとつ。いつか布袋屋四郎兵衛からきいた本所割り下水の跡部屋敷である。  跡部屋敷というのは、跡部源吾《あとべげんご》という八十石取りの屋敷だが、主人の跡部源吾はおさだまりの小普請組。お内緒向きもゆたかでないところから、お屋敷の風儀がすっかりみだれて、中間部屋はいつか賭場《とば》になり、ふうのよくないのがあつまってはさいころ遊び。主人の跡部源吾が寺銭を取るといううわさもある。  じつは、佐七はまえにも、辰と豆六をつかって、この屋敷へひそかにさぐりをいれたことがある。  その結果わかったところによると、永代橋のうえから布袋屋四郎兵衛、じつは悪僧随念を水葬礼にした金太と銀造というふたりは、この賭場の常連で、あちこちのお屋敷をわたってあるくわたり中間らしい。おそらく、悪僧随念は、この賭場へ出入りしている連中をかりあつめて、目算御殿を襲撃したのだろう。  しかし、このまえ佐七がさぐりをいれたときには、金太も銀造もすがたをくらましていた。しかし、いまはどうだろう。あれからもうひと月。その後かわったこともないのだから、またのこのこと、はい出してきているのではないか。 「辰、豆六、とにかく、その金太と銀造のいどころをつきとめろ。しかし、気をつけろ。こっちのほしいのは、金太や銀造じゃねえ。そいつらをあやつっていた随念坊主だ」 「それから、随念をうしろからあやつっている、布袋屋のだんなのおっしゃっる大物というやつですね」 「だから、もんだいは随念だ。随念のいどころがわかりゃ、その背後にある大物というのもわかるだろう」 「しかし、随念坊主がすなおにどろを吐くでしょうかねえ。布袋屋のだんなや鵜飼《うがい》さんがいくら責めても、口をわらなかったというじゃありませんか」 「だから、いどころがわかっても、すぐにはひっ捕らえねえのよ。当分、泳がせておいて見はっているのさ。そしたら、いつか大物というのにぶつかるだろうよ」  それからなおもこまごまとした打ちあわせがあったのちに、辰と豆六は出ていったが、案ずるより産むがやすいとはこのことで、なんと、その翌日、辰と豆六は、金太と銀造をお玉が池へしょっぴいてきた。  案の定、かれらはその後、べつにかわったこともなさそうなので、たかをくくってちかごろまた跡部屋敷へいりびたっているところを、辰と豆六にとっつかまったのである。  どちらも柄のわるい折助だが、よっぽど辰と豆六にどやしつけられたとみえて、佐七のまえにひざっ小僧をそろえたときには、青菜に塩のていたらく。 「おまえたちが金太と銀造か」 「親分、すみません、あっしらただ、たのまれたことをやったまでで、ひとつお目こぼし願います」 「お目こぼし願う。ふざけるな。それじゃてめえたち、たのまれりゃ人殺しでもなんでもやっていいっていうのかい」  佐七があたまから一喝《いっかつ》くわせると、金太と銀造は、ひえっと、かめの子のように首をちぢめたが、 「でも、親分、辰五郎兄いや豆六さんの話じゃ、親分のいいつけをまもって、ここでお上の御用をつとめりゃ、水葬礼の一件は帳消しにしてやるというお話で。それで、おとなしくついてきたんです」 「ふざけるなッ。辰と豆六がなんといったかしらねえが、人間一匹袋詰めにして、それでお目こぼしにあずかれると思っているのかい」 「だって、親分、おいらが水葬礼にしたとおもった布袋屋のだんなは、ちゃんと生きていなさるんで」 「じゃ、おまえたちに水葬礼にされたのはだれだ」 「それがわからねえんで。布袋屋のだんなが生きているとわかって、こちとら、きつねにつままれたような気持ちなんで」 「いったい、だれがおまえたちにそんなことをたのんだんだ」 「へえ、随念という破戒坊主で」 「その随念という破戒坊主は、いったいなにをたくらんでいたんだ」 「くわしことはわからねえんですが、なんでも目算御殿の親玉がなんだかまた大きな仕事をもくろんでるらしい。それをこちらへ横取りして、ひともうけしようじゃねえかと持ちかけてきたんで」 「それで、こちとら、目算御殿の親玉ならあいてにとって不足はねえ。ひとつやっつけべえということになったんで」  ふたりともたいした悪党じゃないが、道義的観念が不足しており、そういう悪事の相談なら、すぐ扇動にのるほうらしい。 「いったい、随念という坊主は、どうして布袋屋のだんなのもくろみをしっていたんだ」 「それがよくわからねえんで」 「そいつはいま……いや、そのじぶんどこに巣くっていたんだ」 「それもしらねえんで。ときどき跡部さんのお屋敷の賭場《とば》で顔をあわせるくらいが関の山で……」 「なんでも深川のほうの寺にいたらしいんですが、なんという寺か存じません」  いや、もうあきれはてたもんだと、佐七は辰や豆六と顔見合わせてにが笑いした。 「それで……いまはどこにいるんだ」 「それもわからねえんで。こちとらもこないだから、坊主のゆくえを血まなこでさがしているんで」 「ひでえじゃありませんか。親分、あの晩、跡部屋敷でおちあって、たんまり礼をもらうことになっていたんです。ところが、坊主め、それっきりいたちの道でさあ」 「だから、こちとらいってたんです。随念坊主め、布袋屋のだんなを水葬礼にして、その仕事を横取りしやァがったなアいいが、もうけをひとりじめにして、ドロンをきめこみゃアがったにちがいねえって」 「そしたら、布袋屋のだんながピンピン生きてるじゃありませんか。だから、みんなきつねにつままれたような気持ちなんで」  金太と銀造はまゆをしかめて、しんじつ、きつねにつままれたような顔をしてみせた。佐七は吹き出しそうになるのをやっとこらえて、 「よし、それじゃ、こうしよう。おまえら、死に身になって随念という坊主をさがしだせ」 「へえ」 「そうだ、こうしよう。いまから五日のひまをやる。きょうは七月の晦日《みそか》だから、八月の五日までひまをくれてやる。そのあいだに、なにがなんでも坊主をさがしだすんだ」 「でも、親分、あの坊主め、まだ江戸にいるんでしょうかねえ」 「いる。おまえたちにゃいえねえが、この江戸のどこかにいるにちがいねえんだ。本所か深川、あるいは下谷か浅草か。そのへんにひそんでいるにちがいねえ。しかし、いっとくがな、みつかっても手を出しちゃならねえ。いや、手を出しちゃならねえばかりか、あいてに、おまえたちに見つかったということをさとられてもならねえ」 「親分、むつかしい注文ですね」  金太と銀造は顔見合わせて、まゆをしかめた。 「いやか、いやならよせ。せっかく親分がああおっしゃってくださるのに、顔をしかめるとはなにごとだ」 「そやそや、そのかわり、どんぶらこの罪によって、親分、めんどうくさいさかい、この場でふん縛ってしまおやおまへんか」  辰と豆六が腰をうかすと、金太と銀造、あおくなって畳に額をこすりつけて、 「ま、ま、待ってくだせえよ。気のはええ」 「なにもいやだなんていってやァしねえじゃありませんか」 「親分、それで……?」 「坊主のねぐらがわかったら、すぐここへしらせにくるんだ。いいか、八月の五日までだぞ。それからあとはこっちへまかせて、おまえらは手をひくんだ。いいな、わかったな」 「わかりました。そのかわり、首尾よくいったら、どんぶらこのほうは……」 「なにぶん、大目にねがいます」 「いいよ、わかった。そのかわり、身にしみて御用を勤めるんだぞ。お粂、ふたりに日当をやってくれ」 「えっ、親分、日当をいただけるんですか」 「当たりめえよ、うちの親分は気まえがいいんだ。お上の御用をおおせつけるのに、ただ働きをさせるようなおひとじゃねえ」 「そやさかい、身にしみて御用をつとめ、いちにちもはよさがしだしておいでえな」  ありようをいうと、なにかのときの入用にもと、お柳がたんまりおいていったのである。それにまた、随念をさがし出せるか出せないかに、布袋屋四郎兵衛の命がかかっているかもしれないのだ。 「おまえさん、どのくらい……?」 「そうよなあ、こんやからはじめてもうらうとして、ふたりでいちにち一分、六日分の日当として一両二分わたしてやれ。それから、いっとくがな、五日までにさがし出してくれりゃ、ふたりに一両ずつほうびをだす。また、いちにちでも早ければはやいほど、一両のほかに、いちにち一分のわりで割り増しをつけてやる」 「へえ、ありがとうございます。こうなったら骨が舎利になっても……」 「きっとさがし出してごらんにいれます」  金太と銀造はすっかり感激して、畳に額をこすりつけた。  虚無僧随念坊主   ——お粂、おまえは辰と間男しろ  バカとはさみもつかいようによるというが、脅しとほうび、この硬軟自在の二面作戦が功を奏したのか、金太と銀造のふたりが、 「親分、わかりました、わかりました」 「随念坊主のいどころを、まんまと首尾よくつきとめました」  糸のきれた奴凧《やっこだこ》のようにキリキリ舞いをしながらお玉が池へとび込んできたのは、あれからなか二日おいた八月三日のことだった。 「なに、随念坊主のねぐらがわかったと?」 「してして、どこにかくれていくさったんや」  辰と豆六が身をのりだせば、 「それが、兄い、ひとをくった坊主じゃありませんか。割り下水と目と鼻のあいだ、というほどじゃねえにしてもさ、おなじ本所に巣くっていやァがった」 「本所のどこだ」  佐七も長火ばちのむこうからのりだした。 「それが、親分、本所のおくの押上に、法恩寺てえ法華《ほっけ》の大きな寺がございましょう。その法恩寺わきの、雲海寺という寺に、坊主め、かくれていやァがった」 「しかも、親分、あつかましいやつじゃありませんか。くそ坊主め、まいにち平気で江戸の町をのし歩いていやァがるんです」 「いがぐり坊主のすがたのままでか」 「いえ、それがそうじゃねえんで。野郎、かんがえやァがった。そういえば、随念め、まえから尺八がじょうずだったんですが、それをよいことにして、そとへ出るときゃ虚無僧姿です」  佐七はあっと辰や豆六と顔見合わせた。  なるほど、虚無僧に身をやつしていれば、だれに顔をみられる心配もなく、また、どこの門口に立っても怪しまれずにすむわけである。そこで、金太と銀造はとくいになって、随念発見のいきさつの苦心談をまくしたてたが、佐七はそれをほどよく聞いてやったのち、 「しかし、あいての坊主はおまえたちに見つかったてえことに気がついてはいねえだろうな」 「それは、親分、大丈夫です。けさもこっそり銀造のやつと雲海寺をさぐってきましたが、坊主め、まだそこにいるようです」 「気がついたら、とっくのむかしにずらかってるはずですからね」 「よし、わかった。それじゃ、おまえらはこれで手を引け。いいか、これいじょう、よけいなおせっかいをするんじゃねえぞ。お粂」 「あいよ」 「約束だ。予定の五日より二日はやかったから、一両二分ずつくれてやれ」 「親分、ありがとうございます」 「こののちも、御用があったらおおせつけくださいまし」  ほうびの金にありついた金太と銀造が上々の首尾でかえっていったあと、佐七は辰、豆六をふりかえり、 「辰、豆六、おまえたちはこれから、当分、すがたをかえて、随念坊主のあとをつけまわせ」 「坊主のあとをつけまわし、大物というのんを割りだそちゅうわけだんな」 「ようし、おもしれえ。豆六、やろうじゃねえか」  それから五日、辰と豆六は姿をかえて、毎日のように随念のあとをつけまわしたが、べつにこれといって変わったところもない。  毎朝かれは五つ(八時)ごろ、虚無僧すがたに身をやつし、天蓋《てんがい》におもてをつつんで寺を出ると、本所一円を流して歩いたすえ、日によっては吾妻橋《あずまばし》をわたって浅草へ出ることもあるし、日によっては両国橋をわたって下谷へ出ることもあるが、どちらの場合でも、かならずかれは、浅草並木の越前屋という菜飯屋へよって、お茶とおかずを少々注文して、わりごの弁当をひらくのである。 「そんなときでも、野郎、天蓋をとらねえんですよ」 「そりゃそうだろう。天蓋をとって、坊主頭を見られちゃまずいからな。ときに、越前屋というなあどうなんだ。腰掛けのいれこみかい」 「へえ、そらいれこみだす。土間のそばにちょっとした座敷もおますが、坊主はいつも腰掛けのほうだす」  それから下谷、浅草へんを門付けに立ったのち、雲海寺へかえりつくのはだいたい夕方の六つ(六時)ごろのことだった。  これがこの五日のあいだに、辰と豆六がさぐりえた随念の日中の行動だが、その間、夜、二度、吉田町《よしだちょう》へ夜鷹《よたか》を買いにでかけた。そんなときには、坊主頭にほおかむりをしてでかけるのである。  佐七はしばらく考えていたが、とつぜんお粂のほうへふりかえると、 「お粂、おまえにちょっとたのみがある」 「あいよ、どんなことだえ」 「おまえにひとつ、間男してもらいてえんだ」 「あれ、まあ、おまえさん、いやだよ。なにをいいだすんだと思ったら……」 「べらぼうめ、ほんとに間男されてたまるもんけえ。ちょっとそのまねごとをしてもらいてえ」 「そして、あいてはだれだえ」 「この辰でどうだ」 「あれ、親分、わてではあきまへんか」 「おまえじゃいけねえ。おまえは上方なまりまるだしだからな」 「へえ、へえ、親分、御用とあらばなんでもいたしやすが、あねさんと間男のまねごととは?」 「お粂、おまえは鳥越へんにかこわれている火消しの組頭のめかけという役回りだ。それがいつか組の若いもんのこの辰と、ひとめをしのぶ仲になってるってえ寸法だ」 「つまり、あっしの丈夫で長持ちするこのからだが、お気に召したというわけですね」 「まあ、そういうこった。そこで、ふたりが並木の越前屋でひそかに会って、あいびきの場所を相談してるって寸法だ」 「あら、まあ、それで……」  と、お粂もにわかに乗り気になる。 「あいびきの場所の相談だから、おおっぴらじゃいけねえが、随念にはきこえるようにするんだ」 「なるほど、なるほど、それで……?」 「けっきょく、神田明神下の『花筏《はないかだ》』(『坊主切り貞宗』参照)がよかろうということになる」 「親分、『花筏』といやァ、いつかの出会い茶屋ですね」 「そうだ。あの家なら、おかみをはじめ、みんな口がかたいし、祝儀さえはずめば、多少なりかたちはわるくても客にしてくれるのだから、勝つぁん……というのが辰の名まえだ、あたしゃこれから、『花筏』へいってまっているから、おまえさんもあとからきておくれと、お粂はひと足さきに越前屋を出る」 「なるほど、それから……?」 「あいては用心ぶけえ坊主だから、あとをつけてこねえともかぎらねえ。だから、その足で、お粂は明神下の『花筏』へしけこむんだ」 「そして、あっしは」 「辰もねんのため、四半刻《しはんとき》(半時間)ほどして『花筏』へやってくる。おれと豆六は、さきにいって待っていらあ」 「そやけど、親分、なんのためにそないなまねせんなりまへんのん」 「なあに、随念坊主に安全無類という出会い茶屋をおしえてやるのよ」 「そんなら、親分、随念にゃ情婦《おんな》があるというんですかえ」 「まあ、なんでもいいからやってみるんだ。ふたりにいっとくがな、こりゃ二度とはきかねえ芝居だから、よっぽどうまくやってくれなきゃいけねえぜ」 「あいよ。辰つぁん、そんならひとつ、あしたにでもやってみるとしようよ」  この芝居はうまくいったようである。その翌日、佐七と豆六が『花筏』で待っていると、昼過ぎの八つ(二時)ごろ、お粂がまずやってきた。 「おまえさん、やっぱり、おまえさんのいったとおりだよ。わたしのあとをつけてきたよ」 「でかした、お粂。それじゃ、芝居がうまくいったんだな」 「どうだかしらないが、わたしゃなんだか気味がわるくって……」  といってるところへ、すこしおくれて、大いにめかし込んだ辰がやってきた。 「親分、野郎、やっぱりあねさんをつけてきやアがったんですね。角の酒屋のまえで、尺八を吹いてましたぜ」 「それで、まだいるふうか」 「いいえ、あっしのすがたをみたら安心したのか、そのままスタスタむこうへ消えちまいました」 「ようし、ご苦労、ご苦労。それじゃ、あとは大物が網にかかるのを待つばかりだ」  と、佐七はいかにもうれしそうである。  くま坊主と色若衆 ——破戒坊主は満面喜悦にかがやいて  出会い茶屋というのは、読んで字のごとく、男と女のしのびあう茶屋、現今の温泉マークのホテルのごときものだが、神田明神下の『花筏《はないかだ》』というのは、『坊主切り貞宗《さだむね》』の一件いらい、佐七とはなじみになっている。  それは、お粂が随念坊主の虚無僧にあとをつけられてから四日目の昼下がりのこと。ひとめをしのんで、うらの路地から『花筏』の勝手口へやってきたのは布袋屋四郎兵衛。むかえにでた佐七の顔をみるなり、 「お玉が池の親分」  大きな地声で話しかけようとするのを、 「しっ!」  と制した佐七の顔のただならぬ色に気がついたのか、あとはしんみょうに佐七についてお内緒へはいってきたが、それでもやっぱり不審にたえぬ顔色で、 「親分、こりゃいったいどういうことで。さっき豆六さんがやってきて、至急、ここへしのんでくるようにと、地図までかいてくれましたが、こんな出会い茶屋にわたしを呼びだし、いったいどういう了見なんです。女を取りもとうというんなら断りますよ。お柳にわるいから」  佐七はおもわず吹き出したが、四郎兵衛はあくまで真顔で、 「いや、ほんとのところ、わたしも若いころには、ところ変われば気もかわると、わざと安普請のこういう家へ、へんな女をひっぱり込んで、となり座敷のむつごとに耳をすまし、こっちも負けじと気分を出したりしたもんだが、このとしになって出会い茶屋とは……」  といってから、きゅうにあたりを見まわすと、 「親分、なにかこの家に……?」 「へえ、だんなにひとつお願いがあるんですが」 「というと……?」 「だんなは、まあ、肝がすわっていらっしゃるから大丈夫だとは思いますが、念のために申し上げておきます。これから妙な場面をお目にかけますが、けっしてお驚きにならないように。いや、驚くなといっても、これはごむりかもしれませんが、けっして声をお立てにならないように」  四郎兵衛はだまって佐七の顔をみていたが、 「親分、なにやらおもしろそうですね」  と、にこりともせず、やや緊張のおももちだった。 「それではこちらへ。声はおろか、けっして物音もお立てにならないように」  四郎兵衛が案内されたのは、『花筏』のおくの中二階。足音をしのばせて階段をのぼっていくと、廊下の左側に四畳半がある。  その四畳半へはいるまえに、佐七は廊下のつきあたりにある窓へいってそとをのぞいたが、裏路地の入り口にさりげなく豆六が立っている。表には辰がみはっているはずだった。  もとのところへもどってくると、 「どうぞ、こちらへ」  おし殺したような声でいい、さきにたって四畳半のなかへはいっていった。この四畳半の廊下とは反対がわの壁のすそには、たかさ一尺ばかりの夢想窓が、壁いっぱいにしつらえてある。  いつか佐七が『坊主切り貞宗』の一件で、ひとりの女とふたりの男の、文字どおり嬲《なぶる》という字になって情事にふけっているのをかいまみたあの窓だ。  佐七は畳のうえに腹ばいになり、窓からしたをのぞいたが、すぐ四郎兵衛をふりかえり、そこからしたをのぞくようにと、身振りでしめした。四郎兵衛も異様な好奇心に血をおどらせながら、畳のうえに巨体をふせて、夢想窓からしたをのぞいた。  この夢想窓のことは『坊主切り貞宗』の項でものべておいたが、そこからのぞくと、したにある四畳半と三畳のふた間つづきの座敷の情景が、手にとるようにみえるのである。  まず、むかって右側に三畳があり、その三畳がふすまひとつへだてて廊下につながっているらしい。その三畳の左側に四畳半があり、この中二階からだと、どちらの部屋ものぞき見することができるのである。  いつの時代でも、たえないものはのぞきの趣味、ひとの情事をかいま見たいというものずきは、いつの世にもたえないらしい。むろん、巧妙な仕掛けがしてあるから、したの座敷からはぜったいに、この夢想窓の存在は気づかれないようになっている。  四郎兵衛が異様な好奇心に血をわきたたせながら、ふたつの部屋を観察すると、まず右側の三畳には、男がひとり、ねこ脚のお膳《ぜん》をひきよせて、茶わん酒をあおっている。  あいにく、むこうむきにあぐらをかいているので、顔はまるでみえないが、法界坊のようないがぐり頭をみたとき、四郎兵衛はあやうく声を立てるところであった。反射的に佐七をみると、佐七は口に指をあて、無言のままでうなずいた。  いがぐり坊主は膚じゅばんいちまいのそでを肩までたくしあげ、下半身はふんどし一本、大きなしりがまるだしである。その脂ぎった大兵肥満《だいひょうひまん》のからだつきから、それがだれであるか、四郎兵衛にものみこめた。  部屋のすみをみると、虚無僧の衣装が衣桁《いこう》にかかっており、そのまえの乱れ箱に、天蓋《てんがい》や手甲|脚絆《きゃはん》、刀掛けにはわき差しがかけてある。  坊主のまえのお膳のうえには二合徳利が三本ならんでおり、坊主は左手でうちわをつかいながら、ときどきふすまのほうへ目をやるところをみると、だれかを待っているらしい。そこで、待ち人のあらわれるのを待つあいだ、四郎兵衛はそっと視線を四畳半のほうへうつした。  そこには部屋いっぱいに白麻|裾濃《すそご》の蚊帳がつってあり、蚊帳のなかにはなやかな色の夜具がのべてある。四郎兵衛のすぐ目のしたに、まくらがふたつ。まくらもとには、タバコ盆と、土びんに湯飲み、うちわがひとつ、桜紙がひとしめ。万事準備完了というかっこうである。  それにしても、あの破戒坊主が、いったいだれを待っているのか。そして、そのことがこんどの一件にどのような関係があるのかと、四郎兵衛がさぐるように佐七の顔をふりかえったとき、ふすまのむこうの廊下をこちらへ、さやさやとちかづいてくるきぬずれの音がきこえてきた。  それをきいて、坊主がお膳《ぜん》のまえからとびあがったのと、佐七がギュッと四郎兵衛の腕をにぎったのと同時であった。  きぬずれの音がふすまのまえでとまった。坊主がなかからふすまをひらいて、肩をだいて、部屋のなかへつれこんだ人物に目をやると、 「なあんだ、陰間か」  と、四郎兵衛は口のなかでつぶやいた。  陰間というのは、いまの男娼《だんしょう》、すなわちゲー・ボーイのことである。  その陰間は、編《あ》み笠《がさ》をかぶっているので、顔はまだみえない。空色の透綾《すきや》の中振りそでの着流しで、帯を胸高にしめているが、その帯がふつうの女の帯より細いところや、いかに華奢《きゃしゃ》とはいえ、女にくらべて骨っぽいからだつきから、すぐに色若衆とわかるのである。  色若衆の肩をだいて部屋へはいり、うしろ手にふすまをしめるとき、坊主ははじめてこちらへ正面をみせたが、それがまぎれもなくいつかの坊主であることを、四郎兵衛はあらためて認識した。  膚じゅばんいちまいのまえはだけなので、坊主はふんどし一本のはだかもどうようである。脂ののった布袋腹《ほていばら》の、へそを中心として、胸から、下っ腹から、太股《ふともも》へかけて、くまのように巻き毛が密生している。  くま坊主は満面喜悦にかがやき、肩をだいて、あごを四畳半のほうにしゃくりながら、なにやら色若衆の耳もとでささやいていたが、あいてが首を左右にふったので、そうか、そうかというように、うなずきながら、あいての頭から編み笠をとってやった。  あいては編み笠のしたにまだ七段目の力弥《りきや》のようにあさぎのほおかむりをしていたが、坊主の手でそのほおかむりがとられたとき、 「なあんだ、坊主に陰間か。べつに変わったとりあわせでもない」  と、たかをくくっていた四郎兵衛は、のけぞるばかりにおどろいた。もし、そのとき、佐七があわてて口をおさえなければ、四郎兵衛の声は、階下にもとどいたであろう。  ほおかむりのしたからあらわれた顔は、わが甥《おい》、いや、わが養子の福之助ではないか。  しかも、それは、つねの日の福之助ではなかった。顔には女のように化粧をほどこし、額には歌舞伎《かぶき》の女形《おやま》がしているように、紫縮緬《むらさきちりめん》の野郎帽子をおいている。もし、これがほんものの陰間としたら、最高の部類にぞくするだろう。  四畳半まくらの無残絵   ——蚊帳のすそがはげしく揺れはじめて— 「お福、お福」  坊主は喜悦にうわずった声をあげると、こちらの席へまわってくるのももどかしかったのか、お膳《ぜん》のむこうにどっかとあぐらをかくと、小山のようなひざのうえへ福之助をだきあげてくちびるをもとめた。  福之助があいてのひろい胸にほおをよせ、甘えるようになにかささやくと、 「おお、そうか、よしよし」  と、満面を喜悦にかがやかせながら、口いっぱいに酒をふくんで、口うつしに福之助の口にそそいだ。  福之助は坊主のふとい猪首《いくび》に両手をまきつけ、口うつしの酒をのみおわっても両手の力をぬかなかった。坊主は福之助のうえにくちびるをかさねたまま、うちぶところをさぐりにかかる。福之助がそれを導入するように、からだをひらくと、すそがわれて、あかいさらしの垂れがのぞいた。  ふたりはしばらくそのままの姿勢でいたが、その息遣いのしだいに荒くなってくるのが、中二階にいるふたりにもハッキリわかった。  福之助がまたなにか甘えるようにささやくと、 「おお、そうか、よしよし」  と、顔をあげた随念の満面は、紅をながしたようにもえあがり、ひとみが異様な熱気をおびてかがやいている。 「それじゃ、すぐにもどってくるほどにな。なんならむこうへいって待っていておくれ」  随念が大きなしりをふりふり出ていったのは、御不浄へでもいったのであろう。  と、とつぜん、福之助の表情ががらりと変わった。かれも随念とおなじように、満面に朱をそそいでいたが、あいてのすがたがふすまのそとへ消えたとみると、さっとひとみに殺気がはしった。  すばやく立って、お膳をまわってこちらへくると、そのうえにかがみこんでなにやらしている。ちょうどからだのかげになって、なにをしているのかわからなかったが、やがて立ってもとの席へもどると、湯飲みのひとつに酒をついだ。  それをとって、口へもっていったところへ、随念が御不浄からかえってきた。 「おや、お福、おまえ、そんなにのんでもいいのか」 「あい、きょうはゆっくりでいいんです。これを一杯いただいてから……」  と、あじな目で蚊帳のほうへあごをしゃくると、 「お師匠様もおひとつどうぞ」 「そうか、そうか、きょうはそんなにゆっくりできるのかい。そいつはありがたいな。それでは、おれももひとつやろうか」  どうやら、随念は福之助の意のままになるらしい。満面、笑みくずれっぱなしで、湯飲み茶わんをとりあげると、福之助がなみなみとついでやった。  一杯、二杯、かけつけ三杯と、福之助のすすめじょうずに、杯のかずをかさねる随念のからだがさっきから燃えにもえつづけていることは、中二階からのぞいている佐七や四郎兵衛にもハッキリしていた。  やがて、随念が三杯めをきれいに飲みほすのをみると、福之助はお膳をわきへ押しやって、 「お師匠様」  と、しなだれかかった。  えたりやおうと、随念がそれをひざのうえへだきあげると、はずかしそうに随念のくまのような胸毛のなかに顔をうずめた。真っ赤にもえたその福之助の耳もとに、随念がなにやらささやくと、こんどはすなおにコックリうなずいて、息をはずませた。 「よし、それじゃ……」  またもや御意のかわらぬうちにと、福之助をだきあげた随念は、満面朱をそそいで笑みくずれ、そのからだは、にえたぎる油のように沸騰している。  かるがると福之助をだいた随念は、となりの四畳半へはいると、ふすまもしめずに、すそをまくって、蚊帳のなかへもぐりこんだ。  福之助のからだを、まるでだいじな宝物のように寝床のうえにねかせた随念は、まず、みずから身につけているものをことごとくかなぐり捨てると、また福之助をひざのうえにだきあげた。  福之助は目をつむったまま、随念のなすがままに身をまかせ、大きく息をあえがせている。その福之助のからだからなにもかもはぎとって、さいごに福之助の締めている赤いさらしのふんどしに手をかけるところまで見とどけて、佐七は四郎兵衛のほうへ目をうつした。  四郎兵衛は畳に額をこすりつけ、大きな肩をふるわせている。  かれも若いころたわむれに、陰間とあそんだことがある。だから、これからそこにどのような情景が展開されていくか、見るまでもなくわかっているのだ。  あの破戒無惨なこじき坊主に身をまかせ、犯され、もてあそばれ、おもちゃにされているのが、げんざいじぶんと骨肉をわかった肉親の甥《おい》であるかと思うと、屈辱と憤りとで、四郎兵衛は腹の底から煮えたぎるようである。  とどうじに、四郎兵衛は、はじめて目のなかのほこりがとれたような気持ちだった。  あの破戒坊主の背後にいる大物とは、なんと、福之助だったのだ。さっきからのようすを見てもわかるとおり、あの破戒坊主は、福之助の意のままになるらしい。福之助の歓心をかうためには、あのこじき坊主は、どんなことでもやってのけるのだ。  また、あの破戒坊主がいかに責められても、問われても、ぜったいに背後の人物をあかさなかった理由も、いまとなってはハッキリする。あの破戒無惨な破廉恥坊主は、福之助に首ったけにほれているのにちがいない。  そのとき、四畳半の蚊帳のなかから、 「お、お福……」  と、喜悦にみちたうめき声と、 「お師匠様……」  甘いとろけるような鼻声が交錯してきこえてきたかとおもうと、蚊帳がはげしく揺れはじめた。  しかし、四郎兵衛はむろん、それをみる勇気はない。耳もふさぎたいくらいである。  しかし、なぜ……?  福之助はなんだってじぶんの命をねらうのだろうか……その点になると、四郎兵衛はてんで五里霧中である。  佐七は、しかし、だいたいのことは察知していたにちがいない。おそらく、随念と福之助は、寺にいるころから衆道のちぎりを結んでいたのだろう。そして、その関係は、福之助が布袋屋の養子として迎えられたのちもつづいていたにちがいない。  論より証拠は、福之助のきょうの衣装だ。福之助はそれらの衣装や化粧道具をどこかへあずけるかかくすかしていて、おりおり随念とあっていたにちがいない。しかし、布袋屋の養子となっているげんざい、それはぜったいに秘密にしておかねばならぬ関係だった。  だから、いまにして思えば、随念が檀家《だんか》の後家とでき、夜鷹《よたか》とたわむれ、舟まんじゅうとあそぶのも、この関係から世間の目をそらせるためのカモフラージだったにちがいない。  佐七がこういうことをとつおいつ思いめぐらせているあいだじゅう、眼下の部屋から間断なく、ふたつのうめき声の合唱がからみ合ってきこえていた。それは共通の目標にむかって驀進《ばくしん》しているふたりの男の喜悦の嗚咽《おえつ》なのである。  佐七はそこに耳をおおうて突っ伏している四郎兵衛の胸中をさっすると、とてももの珍しそうにそのほうをのぞいてみる気にはなれなかった。かれはただ、三畳の部屋へはみ出してゆれつづけている蚊帳の震動をみまもるくらいが関の山だった。  じっさい、佐七はそのときいささかぼんやりしていたらしい。だから、うめき声のようすがいささかちがってきていることに気がつかなかった。それに気がついたのは、四畳半のほうでただならぬけはいがし、 「お師匠様、お師匠様、どうかなされましたかえ」  と、おし殺したような福之助の声がきこえてきたときである。  それでもまだ佐七はことの重大さに気がつかなかったが、つぎの瞬間、 「ヒーッ!」  という悲鳴がきこえ、ドスンバタンと、とっくみあいをするような物音がしたので、ギョッとして、そっちのほうへ目をむけようとしたとたん、蚊帳のなかからよろばうようにころげ出してきたのは随念だった。  随念はもちろん一糸まとわぬはだかだったが、どういうわけか、蚊帳からはいだし、四つんばいになって、二、三歩いったかとおもうと、ガーッと口から吐いた赤いもの。 「あっ!」  と、佐七が息をのんだ目の下へ、 「お師匠様、お師匠様、どうなされました……」  と、あとを追って蚊帳からでてきた福之助も産まれたときのままの姿だったが、野郎帽子がとび、髷《まげ》ががっくりかたむいているところをみると、随念の愛撫《あいぶ》がいかにたけだけしかったか想像される。  福之助は片手にあかいふんどしをにぎっていたが、そこに突っ伏してもがいている随念のすがたをみると、そばへすりより、 「お師匠様、しっかりしてくださいまし、気をたしかにお持ちくださいまし」  いいながら、うしろからふんどしを随念ののどへひっかけると、ぐっとうしろへ引きたおし、随念があおむけにひっくりかえったところへ馬乗りになり、渾身《こんしん》の力をこめて、ひと絞め、ふた絞め。  破戒坊主はいっしゅんかっと目をひらいて、馬乗りになっている福之助の顔をみたが、毒のききめでもう抵抗する力もなかったのか、手足をすこしばたつかせただけで、やがてがっくり動かなくなった。鼻から、口から血を吐きながら……。  さすがの佐七もこの凄惨《せいさん》な情景に、唖然《あぜん》として声がでなかったが、そのときそばから四郎兵衛の血を吐くような声が爆発した。 「ふ、福之助、き、貴様は……貴様というやつは……」  ゆうゆうとして、赤いふんどしをしめなおしていたさすがの悪少年福之助も、とつじょとして降ってきた聞きおぼえのあるその声に、ギョッとして立ちすくんだところへ、 「福之助、御用だ。お玉が池の佐七が御用にする。神妙におなわにかかれ」  と、はげしく夢想窓をたたいたから、福之助はのけぞるばかりに驚いたが、つぎの瞬間、ふんどし一本のあかはだかで、ふすまのそとへとび出した。  目算御殿も昔の夢   ——お柳はぞっこんわしにほれている  福之助は聖橋《ひじりばし》から神田川めがけてまっさかさま、そのまま冥途《めいど》とやらへ旅立ったが、これは佐七の布袋屋へたいするあたたかい思いやりだった。  佐七は福之助を捕らえようとおもえば捕らえることができたのである。路地の入り口には豆六が張っていたし、表通りには辰がいた。  じじつ、ふたりとも、赤いふんどしでとび出してきた福之助のすがたを見ると、いったんは目をまるくしたものの。すぐつぎの瞬間、捕らえようとしてまえへ出た。そこへあとから追ってきた佐七が、両手をふって制止した。  そこは、ノミといえばツチの親分子分だ。佐七の意のあるところをさっした辰と豆六、からだをひらいてやり過ごした。  それでいながら、三人は、 「福之助、御用だ、神妙にしろ」 「福之助、年貢の納めどきだ、おなわにかかれ」 「福之助、逃げよちゅうたて逃げられへんぜ。神妙におなわをちょうだいしなはれや」  と、口々に連呼しながらおっていく。  その声においたてられ、駆りたてられて、福之助はもうさんばら髪、明神下から湯島の聖堂《せいどう》のわきをひた走り。  なにしろ、赤いふんどし一本の少年が、髪ふりみだし、血相かえて走っていくのだから、道ゆくひとびとはあれよあれよという騒ぎ。途中、なんどかひとがまえに立ちはだかりかけたが、そのつど佐七や辰や豆六が手をふって、そのじゃま者を追っぱらった。  こうして、福之助がやってきたのは聖橋。立ちどまってふりかえると、佐七と辰と豆六が、めいめい十手をふりかざし、 「福之助、御用だ、神妙にしろ」  と、くちぐちに呼ばわりながら迫ってくる。  そのとき、おそらく福之助は、まんまといっぱい佐七のわなにはまったことに気がついたのにちがいない。くやしさと、悲しさと、身勝手な憤りの色が、さっとこの悪少年の顔に走ったが、つぎの瞬間、絶望的に目をとじると、聖橋の欄干をのりこえて、はるか眼下にながれる神田川めがけてまっさかさま。  わあああッ……という悲鳴がながく尾をひいて、ここからとび込めばまず絶対にいのちはない。  佐七はそれを見とどけると、あとは辰や豆六にまかせておいて、『花筏』へとってかえした。  まず、随念の死体をあらためると、これは完全に毒がまわっていた。ほっておいても死ぬことはまちがいなかったが、それをさらにふんどしで絞めたのは、声を立てることをおそれたのだろう。  お内緒へはいっていくと、四郎兵衛がひとりしょんぼり座っていた。 「だんな、福之助さんはお亡くなりなさいましたよ。聖橋からとび込んで……」  四郎兵衛は、だまって佐七の顔を見ていたが、やがてふかぶかと頭を垂れると、 「親分、ありがとうございます。このお情けはけっして忘れはいたしませぬ」  佐七が福之助を死なせてやったのは、福之助にたいしても情けであり、かつまた、布袋屋の後難をすくうためでもあった。  福之助を捕らえていれば、佐七にとっては大きな手柄となったであろう。そのかわり、福之助の吟味中、四郎兵衛はたびたびお奉行所へお呼びだしをうけなければならないだろう。さらに、福之助が引き回しのうえ獄門にでもなったら、布袋屋ののれんに傷がつく。佐七はそこのところをおもんぱかったのである。 「それにしても、親分、わたしはまるでわるい夢でも見ているような気持ちですが、福之助はなんだって、わたしのいのちをねらったんでしょう。あいつも岩戸藩の抜け荷買いの船をねらっていたんですか」  四郎兵衛はしんじつ夢に夢見る顔色だったが、それにたいして、佐七はにんまり笑うと、 「だんな、この一件にゃ、緋《ひ》ぼたん娘も、岩戸藩の抜け荷買いも、なんの関係もないんです。ただ、この時機にだんなをあやめておけば、そっちのほうへ疑いがいって、じぶんには疑いがかからないだろう……というのが、あのわるがしこい福之助さんのねらいだったんです」 「しかし、福之助がなんだってわたしを……?」 「殺生関白にゃなりたくなかったんでしょうね」 「親分、そりゃまたどういう意味で」 「だって、だんなにゃ去年の秋以来、かわいい淀君《よどぎみ》がおできになっていらっしゃるじゃありませんか。いずれそのうちに秀頼公《ひでよりこう》がご誕生あそばしたら、殺生関白|秀次公《ひでつぐこう》はお払い箱。だから、そのまえにだんなをあやめて、布袋屋の天下をじぶんの掌中ににぎろうというのが、福之助さんのねらいだったんでしょう」 「バ、バ、バカな。そ、そ、そんなバカな」  心の底からあきれかえった顔色で、佐七の話をきいていた布袋屋四郎兵衛、とつぜん、世にも愚かなことをきくものかなといわぬばかりに、 「もし、ほんとうに福之助がそんなことを考えていたとしたら、あいつはとんだ大バカ野郎だ。わたしに子どもができてたまるもんか」  四郎兵衛は、口角あわをとばさんばかりに力みかえったが、佐七はにやにやしながら、 「へへえ、だんな、えらいけんまくですが、どうしてそんなご自慢ができるんです」 「自慢……? 冗談じゃないよ、親分、わたしだって子どもがほしい。しかし、できるもんなら、いままでとっくにできているはず。わたしももう四十二。わたしは子ダネがないものとあきらめている。もし福之助がそんなとりこし苦労をしていたとしたら、それこそ大バカ野郎の、大とんま野郎だ」 「だんな、そんなにおいばりになってよろしいんでしょうか」 「いばりゃしないよ、なにも……」 「だって、それじゃお柳さまが、だんなの目をかすめて、密男《みそかおとこ》をつくっていらっしゃるということになるじゃありませんか」 「お柳が、なにか……?」 「しっかりしてくださいよ、だんな、お柳さまは、だんなのおタネを宿して、もう三月」 「げっ、お、親分、そ、そりゃほんとうか」 「うそかほんとか、お柳さまにじかにきいてごらんなさい。だんながそんなに弱気でいらっしゃるから、お柳さま切り出しにくくて困っていらっしゃるそうですよ」 「しかし、親分がどうしてそれを……」 「けさがた女房を駒形《こまがた》へ聞きにやったんです。それというのが、このあいだ、お柳さまがあっしのところへおみえになったときのお顔もとから、てっきりそれにちがいないと女房のやつがいうもんですから……それとも、だんな、お柳さまのおなかのお子さんは、密男のタネでしょうかねえ」 「と、とんでもない。あれはゾッコンわたしにほれてる」  と、いいもいったり四郎兵衛がヌケヌケといってのけたから、佐七は腹をかかえてわらいながら、 「だんな、とうとう本音が出ましたね。それにしても、だんな、世間でよくいうじゃありませんか。世のなかばんじ良いことばかりもないかわりに、悪いことばかりもないもんだと。お柳さまにおめでたがありゃ、福之助さんの埋め合わせがつくばかりか、おつりがくるというもんです。せいぜいいたわってあげてくださいまし。では、これで……」  呆然《ぼうぜん》として涙ぐんでいる四郎兵衛をあとにのこして、佐七はやおら立ちあがった。  福之助が随念を殺したのは、たびかさなる失敗と、佐七の追求がきびしくなってきたので、四郎兵衛殺しの計画をあきらめたのだろう。それには、随念が生きていては後日のさまたげと、色にことよせいっぷく盛ったのだから、すがたは美しいが、心は悪鬼のような少年だった。  この一件の直後、お柳さまはあらためて四郎兵衛と祝言の杯をして本宅へひきとられたが、その翌年の春早々、玉のような男の子をもうけた。  いままで、子宝にはめぐまれないものとあきらめきっていただけに、四郎兵衛のよろこびはいかばかりか、それいらい、ふっつり山っ気をすて、全精力をかたむけて、お柳さまを寵愛《ちょうあい》したから、お柳さまはそのごもぞくぞく子どもをうみ、四郎兵衛ついに三男二女の子福者になったという。  したがって、目算御殿もいまはむかしの語り草となってしまった。  緋《ひ》ぼたん娘は四郎兵衛に養われていたが、この一件のあった秋、はかなくこの世を去った。ついに正気にもどることなく、したがって、どこのだれともわからぬままに……     影法師  一世一代の大芝居   ——ぬれ場のはじまり、はじまり  ちかごろ新聞をみると、会員をつのってひそかにエロ映画を見せていたというかどで、検挙されたというような記事を、よく見受けることがあるが、こういう映画を見る客に、あまり若いひとはいないようである。おおくは中年からうえの、生活にこまらない人物の物好きで、おそらくその年ごろになると、精力がおとろえはじめるところから、こういう、猟奇的な刺激がほしくなるのだろう。しかも、こういう催しは、えてして真夏がおおいようである。  いつの時代もおなじことで、江戸時代にも、これに似たことはあったらしい。まさかそのころ映画はなかったであろうが、それにかわる見世物が、漁色にあいた金持ちのあいだで、ひそかに楽しまれていたようである。  それは地獄の釜《かま》のふたも開くといわれる夏の土用のある晩のこと。 「もし、越前屋さん、そうにやにや脂下《やにさ》がっていないで、そろそろ、こんやのご趣向というのを披露《ひろう》してくださいよ」 「ほんにそうだ。もうおっつけ五つ(八時)。お酒のほうはたっぷりいただきましたから、こんどはいよいよ、ご趣向というのを見せていただきたいものですな」 「ご案内によると、これを見ると暑気ばらいとともに、いっぺんに若返るということでしたから、さっきから楽しみにしているんです。そうじらさずに、そろそろふたをあけてくださいな」  くちぐちに客から責められて、越前屋|茂兵衛《もへえ》はにやにやしながら、 「さようさ、酒もほどよくまわったから、わたしもよいころあいだと思うんですが、支度ができないとみえて、かんじんの太夫《たゆう》が顔を見せないので……でも、おっつけまいりましょう。もうしばらくのご辛抱です」  そこは、深川黒江町にある越前屋の寮である。  越前屋はお城御用の材木商だが、十数年まえの大火のみぎり、いちはやく、木曽《きそ》のひのきを一手に買いしめ、大もうけをしたとかで、当時江戸でも、五本の指に折られるほどの分限者だった。  本宅は日本橋にあるのだが、五、六年まえ、金にあかして建てたのがこの寮で、近所のひとから、黒江御殿とよばれるほどのりっぱな建物。  主人の茂兵衛はことし四十五の男盛り、でっぷりとふとったよいだんなで、よくもうけもするが、よく使いもする。寛濶《かんかつ》で、遊びずきなところは、そのかみの紀文や奈良茂《ならも》に比較され、吉原《よしわら》や柳橋で、越前屋のお大尽といえば、泣く子もだまるといわれるくらいだ。  その越前屋が、こよい、遊びなかまのだんなたちを六名この寮に招待したのは、なにか趣向があってのことらしく、案内状にも、暑気ばらい、若返り、回春の妙薬をお目にかけると、意味ありげな文句がしたためてあった。さてこそいちどう、いったいどんな趣向があるのかと、好奇心に胸おどらせてきてみると、そこにはちゃんとひとりずつ、なじみの芸者が待っていた。  そこでいちどう大満悦で、飲むほどに、酔うほどに、しだいに席が乱れてきて、そこはいずれも中年をこえた男たちのこととて、恥も外聞もなく、めいめい、なじみの妓《こ》をそばに引きつけてふざけていたが、そのうちに脂ぎったのが、 「もし、越前屋さん、いったい、どんな趣向があるのかしらないけれど、わたしゃいっときもはやく、このお春とおひけにしてもらいたいな」  とせきたてれば、茂兵衛はわらって、 「あっはっは、池田屋さんはあいかわらず気が若いな。まあ、お待ちなさい。いずれおひけになるにしても、あれを見てからにすると、いっそう味が濃いというもんです」 「だからさ、あれというのを、早く見せてくださいよ。もし、お駒《こま》さん、おまえさんは知ってるんだろう。越前屋さんは、いったい、なにをもくろんでいなさるんだ」 「さあ、それが、わたしにもわからないんですよ。だんなはなにもおっしゃってくださらないんですもの」  お駒はことし二十一、柳橋きってのうれっ妓《こ》で、茂兵衛のおもいものである。 「もし、だんな」  茂兵衛のひざに手をかけて、お駒はしなだれかかるようにしながら、 「お客様があんなにじれておいでになりまする。どんなご趣向か存じませんが、はやくご披露《ひろう》してあげてくださいまし」 「あっはっは、お駒」  茂兵衛もお駒の肩に手をかけて、 「わたしだって、いっこくもはやく披露をすませて、おまえとふたりでしんみり語りたいのだが、かんじんの太夫《たゆう》が……おっと、きた、きた、どうしたんだ、吉兵衛《きちべえ》、おそいじゃないか。さっきからお客人は申すにおよばず、妓《おんな》たちもじれきっているところだ」 「えっへっへ、どうもまことにあいすみません。なんしろ、一世一代の大芝居でげすから、支度に手間がとれましてな。皆様、おそくなって申し訳ございません。ねえさんがた、おたのしみで」  と、そこへ平伏する男をみて、 「なんだ、おまえは二朱判吉兵衛《にしゅばんきちべえ》じゃないか、それじゃ、こんやの趣向というのはおまえの筋か」 「えっへっへ、ま、さようで」 「おまえの趣向じゃ……」 「たかがしれてるとおっしゃるんですか。ところが、なかなかさにあらず、今夜はうんと変わったところをお目にかけます。だんな、お流れをひとつ。なんぼなんでも、こりゃしらふじゃアやれませんや」 「それもそうだ。みなさんもひとつ、吉兵衛に飲ませてください」  この二朱判吉兵衛というのは、当時有名な幇間《ほうかん》で、年のころは四十五、六、海坊主のように脂ぎった大男だが、いまのことばでいえば、マゾヒストとでもいうのか、男や女にバカにされ、おもちゃにされるのが、ことのほかの楽しみという、うまれついての太鼓持ちかたぎ。  げんに、ここにいる越前屋のおもいもの、お駒などもその一例で、吉兵衛はかつてぞっこんお駒にほれていたことがある。太鼓持ちの身分柄をもわきまえず、おもいのたけを書いておくった。はじめのうちはなんの音さたもなかったが、それにも屈せず、しげしげ懸想文《けそうぶみ》を書いておくっているうちに、とうとうそのおもいがとどいたのか、お駒からうれしい便りがとどけられた。  いついっか夜の何刻《なんどき》ごろに、これこれこういう家の離れ座敷へ、ひとめを忍んで会いにきてほしい。つもる話はいずれそのときと、吉兵衛の身も心もとろけそうなことが書きつらねてあった。  天にものぼる気持ちの二朱判吉兵衛、定めの日の定めの時刻ともなると、大めかしにめかしこんで、指定の離れへしのんでいったが、はたして座敷のなかの寝床のうえには、お駒がなまめかしい長じゅばんいちまいの、膚もあらわに身をよこたえていた。  しかし、そこに身をよこたえていたのは、お駒ひとりではなかった。お駒はこれまた膚もあらわな男の腕に抱かれていた。お駒を抱いているのは越前屋茂兵衛だった。  越前屋は吉兵衛の顔を見ると、にやっと笑ったが、しかし、お駒のからだを抱いたままはなそうとはしなかった。お駒もまた越前屋に手脚をからませたまま、離れようともしなかった。あいてが吉兵衛だと、男も女もかくのごとく、恥も外聞もわすれてしまえるのである。  吉兵衛も吉兵衛で、はじめはことの意外におどろいて、べったりその場にへたってしまったが、すぐもちまえの幇間気質を発揮して、おもう女がほかの男に自由にされているのに腹も立てずに、よだれをタラタラ流しながらおわりまで見ていたばかりか、あとで素っ裸にされたあげく、越前屋の目のまえで、お駒にさんざんおもちゃにされながら、いよいよ悦に入って、はてはうれし泣きに泣き出したという。  それいらい、吉兵衛は越前屋の無二のお気に入りとなり、越前屋の注文なら、どんな恥知らずのことでもやってのけた。したがって、越前屋の遊びの趣向といえば、たいていこの吉兵衛の胸三寸から出るのである。  吉兵衛はしばらく座の取りもちをしながら、だんながたや妓《おんな》たちにさされるままに杯を干していたが、やがてほどよく酒がまわると、 「どれ、それじゃぼつぼつ、吉兵衛が一世一代の大芝居にとりかかろうか」  と、芝居がかりに立ちあがると、 「みなさま、ごゆっくりとお楽しみくださいまし。それから、だんな」 「あいよ」 「あっしが出ていったら、こちらの座敷のあかりを消してください。そして、どんなことがあっても、むこうのほうへ来ぬように。あっしはいいが、女がかわいそうですからね」 「いいとも、いいとも、心得てるよ。さあ、みなさまがお待ちかねだ。はやくはじめたり、はじめたり」 「おっと、合点だ。それじゃぬれ場のはじまり、はじまり」  吉兵衛はわざとおどけた見得をきると、ほろ酔いきげんの千鳥足で座敷を出ていったが、越前屋をのぞくいちどうは、いったいなにがはじまるのかと、かたずをのんで待っている。  影法師美女と雷獣   ——燃えているのは男のほうだけ  吉兵衛が出ていってから、五分、十分……。  あかりを消した座敷のなかでは、主客とりまぜて七人の男と、七人の男のあいてをつとめる七人の芸者が、かたずをのんで杯をなめている。それ以外の人間は、みんなその場からおっぱらわれて、近寄ることをゆるされなかった。  いいわすれたが、その座敷というのは、黒江御殿のなかでもいちばん奥まった庭にめんして、あけはなった障子のそとには、庭をへだてて、茶室ふうの建物がみえている。  さて、吉兵衛が出ていってから十分あまりたったころ、その茶室のなかに、パッとあかるくあかりがついて、障子にくっきりと、あざやかな影法師がうつし出された。  いやいや、それは障子ではない。障子ならば桟《さん》の影がうつるはずだが、そこにはそんなじゃまなものもなく、白いものがいちめんに張られているのである。おそらく、障子をとりはずし、そのかわりにとくべつに織らせた布を張りつめてあるのであろう。茶室のこととて縁側もなく、軒もあさいから、その布にうつる影は、こちらの座敷から手にとるように見えるのである。  さて、あかりがついたとき、そこにうつし出されたのは、こたつにもたれて、うたた寝をしている女の影だった。おそらく、酒に酔いつぶれているのであろう。こたつのうえに二、三本、お銚子《ちょうし》のならんでいるのがうつっている。  越前屋茂兵衛のこよいの趣向というのが、この影法師にあるらしいことは、すぐいちどうにものみこめた。それに、茂兵衛と吉兵衛のさっきのやりとりを思い出すと、その影法師がこれからいかなることを演ずるか、だれにも想像がついたので、男も女も、かっとからだが熱くなるのをおぼえた。  ——と、突如、茶室のほうから、ドロドロドロ、ドロン、ドン、ドン……。  と、ものすごい太鼓の音がきこえてきた。おそらく、こちらの注意をひくための太鼓であろう。いったい何事がはじまるのかと、いちどうがかたずをのんで見守っていると、やがて太鼓が鳴りやむとどうじに、ひらりとそこへおどり出たのは、どうやら雷様らしい。  ふんどしひとつの赤裸で、せなかに雷太鼓をせおい、手にばちを持った影法師が、スクリーンのうえに踊っている。顔がはっきり鬼のかたちをしているのは、面をかぶっているのであろう。  でっぷりふとったからだつきといい、おどけた踊りぶりといい、それが吉兵衛であることは、だれの目にもすぐにわかった。  影法師はしばらく鬼の念仏を踊っていたが、そのうちに、ふと女に気がついたところで、二、三歩うしろへとびのいた。それから、へっぴり腰のおどけたかっこうで女の顔をのぞいていたが、やがてはたと両手を打ち、ばちをなげだし、雷太鼓をそこへおろすと、そろそろ女のほうへ近づいていく。 「さあ、いよいよ、これからですな」  暗がりのなかで、だれかが小声でうなった。ひどくしゃがれた声である。七組みの男と女がぴったりとよりそって、だれもかれも汗ばんで、息をはずませている。  雷獣は女のうしろにすわり、遠くから小突いたり、つついたりしていたが、女が目覚めそうにないのをみると、しだいに大胆になり、うしろからそっと女を抱きおこした。女はそれでもぐったりしている。  雷獣はいよいよ図にのって、女の顔にほおずりをしながら、うちぶところへ手を突っこんだ。 「あの女、ほんとに眠ってるんでしょうか」  だれかの生つばをのむような声である。 「なあに、きまりが悪いから、わざと眠ったふりをしているのさ」 「ちっとも動かないが、まさか人形じゃありますまいね」 「いや、人形じゃないでしょう。人形じゃ、ああしなやかにいきません」 「髪かたちをみると、小娘のようじゃありませんか」 「わざとあんななりをしてるんですよ。小娘があんなことをさせるはずがない。いずれはすれっからしにちがいない」 「すれっからしでもなんでもいい。早くいいとこを見せてもらいたい」  くらやみのなかであつい息を吐きながら、不良老年どもがひそひそ話、のどがかわくのか、だれもかれも冷たくなった酒を独酌《どくしゃく》でやっている。  やがて、雷獣はそろそろ女の帯をときにかかった。吉兵衛がわざとこちらに見せるようにやっているのだから、影法師はいつもくっきりとした輪郭をうきあがらせている。  帯をといてしまうと、そろそろ着物をぬがせはじめる。それでも、女は男のなすがままにまかせている。着物をはがされていくにしたがって、むっちりとした胸の曲線、乳房のふくらみがあらわれてくる。女はやがて腰のものいちまいになる。  暗やみのなかのあちこちで、すすり泣くようなため息がきこえる。みんなうちわを使うことすら忘れている。  雷獣は片手で女を抱き、片手でいよいよ女が膚につけたさいごのものをはぎとった。 「ああ」  と、だれかがうめくように、 「あれはやっぱり人形じゃない」 「そうそう、人形じゃああこまかい細工はできませんね」  吉兵衛がうしろから抱きかかえて、女をよこむきに立たせたので、下腹部から股《もも》へかけての曲線が、くっきりとあざやかに、白いスクリーンにうつしだされた。 「しかし、あの肉づきじゃ、ありゃアやっぱり小娘ですぜ」 「小娘ならなおのことおもしろい。小娘がしだいにとりみだしていくところを見るのも一興でさ」  だれかの舌なめずりをするような声である。  雷獣は女を裸にしてしまうと、いったんこたつにもたせかけて、じぶんはすっくと立ってよこむきになり、とらの皮のふんどしをはずした。こちらは男だから、体のいかなる隆起も突起も、まざまざとその形のままスクリーンに投影される。光源とそのものの距離の関係で、それはいやに大きく誇張されていた。 「バカなやつ」  だれかが吐き出すようにつぶやいたが、それは羨望《せんぼう》の気味もあったのかもしれない。  雷獣はしばらく誇らしげによこむきに立っていたが、やがてこたつにもたれている女の腰をだいて立たせると、まもなくふたつの影がひとつになった。  七人の男と七人の女は、おもわずあっと息をのみ、みんなてんでに手に汗にぎっていたが、だいぶんたってから、だれかがわざとつまらなさそうに、 「なアんだ。燃えているのは吉兵衛だけじゃないか。女はいったいどうしたんだろう」  その男はなににでもケチをつけたがる性分だったが、いまのことばはほんとうだった。女は男のなすがままにまかせているが、じぶんのほうから燃えるふうはいっこうみえない。男がもえにもえていかにたけりくるっても、女はただぐんにゃりしているばかりである。 「あれじゃ、死人を抱いているのもおんなじだ。まさか、あの女、死んでいるんじゃありますまいね」  れいによってケチをつけたがる男の声である。 「しっ、縁起でもない。駿河屋《するがや》さん、まあ、見ていらっしゃい。いまにそろそろ……」  と、越前屋があいてをたしなめたときである。とつぜんあかりがきえて影法師が、かきけすように見えなくなった。 「あ、ど、どうしたんです」 「これからがかんじんのところじゃありませんか」 「越前屋さん、ご趣向というのはあそこまでですか」 「いいえ、そんなはずはない。最後までいくはずだったんですが……まあ、お待ちなさい。吉兵衛にになにかもっとおもしろい趣向があるんですよ」  いちどうはかたずをのんで、なおも白布のうえをにらんでいる。その布のむこうがわで、ちょっとざわざわ、あわただしい気配がきこえたが、やがてそれが静まると、あとは水を打ったような静けさ。いつまで待ってもあかりはつかない。  五分……十分……とうとうたまりかねて、茂兵衛がはげしく手を鳴らした。それを聞いて、庭のほうからやってきたのは、いつも茂兵衛がお供につれてあるく伊三郎《いさぶろう》という若い手代である。 「だんなさま、なにか御用で……」 「ああ、伊三郎か。ちょっと茶室をのぞいてこい、吉兵衛のやつ、なにをしているのか」  伊三郎はすぐ庭をつっきって、 「吉兵衛さん、吉兵衛さん。だんながお呼びですよ」  と声をかけながら白布のなかへ首をつっこんだが、しばらくすると、きゃっとさけんで、のけぞるように白布のなかからとび出した。 「だ、だ、だんなさま、た、た、たいへんです。吉兵衛さんが……吉兵衛さんが……」 「え、き、吉兵衛がどうしたんだ」 「だれかに背中をえぐられて……茶室のなかは血だらけです」  それをきくと、いちどうは顔色かえて総立ちになる。  相手の女   ——女のことは聞いてくれるなと 「お玉が池の親分、わたしのものずきから、とんだことが起こってしまって、なんともはや面目ない。こんやの趣向についちゃ、わたしがいっさい責任をおいます。そのかわり、吉兵衛を殺した下手人を、一刻もはやくあげてください」  あれから判刻《はんとき》(一時間)ほどのちのこと、越前屋茂兵衛の迎えによって、大急ぎでかけつけてきた佐七なのである。  ことわっておくが、これは佐七がまだ独りもののじぶんのことで、辰《たつ》や豆六という子分もまだいなかった。茂兵衛は以前にもいちど、佐七のやっかいになったことがあるので、こんやの事件が持ちあがると、すぐに佐七を思い出し、迎えにやったというわけである。  佐七ははなしをきくと顔をしかめて、 「それで、ほかのだんながたや妓《おんな》たちは……」 「あのひとたちには帰ってもらいました。あの連中は、この一件になんの掛かりあいもないのです。むこうで吉兵衛が殺されたとき、みんなこの座敷にいたんだからね。それに、こんやのこの趣向は、わたしと吉兵衛がしってるだけで、あの連中はなにも知らなかったんです。だから、あの連中のことは、あくまで内聞に……」  さすがに茂兵衛は、じぶんの物好きからおこったこのわざわいを他におよぼすことをおそれて、極力、佐七に懇願するのである。  佐七はちょっと考えて、 「それじゃ、とにかく現場というのを見せていただきましょうか」 「さあ、どうぞ。そこに下駄《げた》がありますから」  茂兵衛の案内で茶室へいくと、そこにはまだ白い布が張りつめてある。それをくぐってなかへ入ると、茂兵衛がすぐに行灯《あんどん》に灯をつけた。  そこはせまい四畳半で、中央に敷き布団がしいてあり、そのうえにかたちばかりの置きごたつ、おちょうしが二、三本ころがっていて、部屋のすみには雷太鼓に太鼓のばち。そして、こたつのそばにとらの皮になぞらえたふんどしがおちており、敷き布団のうえに素っ裸の男が、仰向けざまにひっくりかえっている。酒ぶとりのしたいやらしいほど脂ぎった大男である。佐七はその股間《こかん》に目をそそぎながら、 「だんな、だんながこの死骸《しがい》を見つけなすったときには、うつぶせに倒れていたとおっしいましたが……」 「はい、それはわたしがひっくり返してみたんです。ほんとうに死んでいるかどうかと思って……」 「ああ、さようで。ほかになにか手をおつけになったものは……?」 「いいえ、なにもございません。この一件が発見されてから、この座敷へ入ったものは、わたしだけでございますから、死体のほかには、なににも手はついておりません」 「ああ、さようで」  佐七は吉兵衛のからだをひっくり返して、うつぶせにしてみた。小屋のようなふたつのしりの肉塊が、ぶるんぶるんとコンニャクのように揺れて動いた。  見ると、肉づきのよい左の背中に、匕首《あいくち》でえぐられたのだろう、鋭い傷が口をひらいて、そこからぐっしょり血があふれている。その傷口からあふれた血潮が、こたつの掛け布団から敷き布団をまっ赤にそめて、その血だまりのなかに、鬼の面が落ちていた。吉兵衛は鬼の面をつけたまま、女をうえから抱いて、ことを行っていたのである。  佐七は四畳半のおくにある、行灯《あんどん》に目をとめると、 「なるほど、あの行灯の灯で白い布に影がうつるという仕組みだったんですね」 「はあ、さようで。だから、なにもかもおおげさにうつって……それがまた、吉兵衛のねらいだったようで……」 「なるほど」  と、佐七はにが笑いをしながら、 「それで、伊三郎さんがのぞいたときには、女の姿はもうどこにも見えなかったんですね」 「へえ、さようで。吉兵衛がうつぶせに倒れているばかりで……」 「しかし、女はすっかり吉兵衛に裸にされていたというじゃありませんか。その着物や、帯や腰巻きなどはどうしたんです」 「それは、たぶん下手人がひとまとめにして持っていったのでしょう」 「そんなひまがありましたか」 「それはありました。まさか、こんなことがあろうとは思いませんから、灯が消えてからかなりながく、わたしどもはむこうで待っていたものですから……」 「しかし、ここで人殺しがあったのなら、むこうの座敷で気がつきそうなものじゃありませんか。たとえ、ひとつきで死んだとしても」 「それが……灯が消えたせつな、口々に、がやがや騒いでおりましたから、うめき声を立てたぐらいじゃ、気がつかなかったと思うんです。もっとも、そのあとでざわざわひとの気配がしてましたが、わたしどもは、てっきり吉兵衛が、灯が消えたのであわてているんだと思いました。ところが、いつまでたっても灯がつかないので、伊三郎を呼んで見によこした。ところが……」  佐七はまた行灯のほうへ目をやった。それは四畳半のいちばん奥の、つぎの間へ出るふすまのまえに立っている。 「行灯はそのときもここにあったんですか」 「そうです。そこにおかぬと、影法師がうまくあの布にうつりませんから」 「それじゃ、あかりを消したのは、吉兵衛でも女でもありませんね。そのこたつと行灯じゃ、かなり離れておりますから」 「そう、それは、影法師を見ていてもわかりました。吉兵衛は女を抱いて、夢中だったんです。だから、男も女も、灯を消すようなそぶりは少しもしなかったんです」  佐七はちょっと考えて、 「すると、こういうことになりますね。吉兵衛が女を抱いて夢中になっているところへ、だれかが灯を消してとびこんできた。そして、ひと突きに吉兵衛を殺すと、女を助けて逃げだした……と、そういうことになるんですね」  茂兵衛は顔をしかめて、 「ええ、まあ、そういうことになります。しかし、女を助けるといったところで、女もちゃんと納得ずくだったはずなんですが……」  佐七はするどくその顔を見て、 「だんな、女はいったいだれなんです。どうせ、そんなあさましいことをしてみせようというのだから、ただの女じゃありますまいが……」  茂兵衛はいよいよ顔をしかめて、 「それがわからないから困ってるんです」 「わからない? そりゃアほんとうですか」  佐七が疑うような目つきをするのもむりはない。茂兵衛は強くうなずいて、 「ほんとうです。吉兵衛がいっさいひきうけて、どこからか女を連れてくるが、女のことについちゃなにも聞いてくれるな。じぶんは男だからかまわないが、なんぼなんでも、女はかわいそうだからと、吉兵衛がそういうもんですから……」  佐七はまじまじと茂兵衛を見ながら、 「それにしても、いったいだれが、こんなことを思いついたんです。だんなのお考えですか」  茂兵衛はさすがに顔をあからめて、 「いや、言いだしたのは吉兵衛です。柳橋に、『さが野』という料理屋がありましょう。このあいだ、あそこで遊んでいるうちに、あまり退屈なものだから、なにかひとをあっといわせるような趣向はないかと、吉兵衛に相談したんです。すると、吉兵衛がこの話を持ち出したので……わたしもはじめは、あんまりだと思って反対したんですが、吉兵衛のやつは大乗り気で、男の役はじぶんがつとめる、女もきっと探してくるから、そのかわり、祝儀をうんとはずんでくださいと……」  いかに金が欲しかったとはいえ、いかにいやしい稼業《かぎょう》とはいえ、みずからこのあさましい見世物の役を買って出ようとは……佐七はあまりのいやらしさに、体じゅうがむずむずするような感じであった。 「ところで、今夜のこの趣向を知っているのは、だんなと吉兵衛だけだということでしたが、そりゃアほんとうですか。ほかにだれか……」 「ああ、そういやア、『さが野』のおかみのお徳がしっているはずです。その相談があったとき、お徳もそばにいて、しきりにとめていましたから……」  佐七はしばらく考えていたが、 「いや、ありがとうございます。それじゃ、だんなはむこうへいっていてください。それから、伊三郎さんにここへくるように……」  花かんざし   ——それはお町さまの花かんざし  茂兵衛が立ち去るのを待って、佐七は茶室を調べてみる。  四畳半のつぎは三畳のよりつき、そのそとは玄関、玄関を出ると植え込みのなかに曲がりくねった道がついている。その道をいくと裏木戸につきあたったが、木戸は開けっぱなしになっていた。そこから外へ出てみると、くらい堀《ほり》にそうて寂しい往来である。 「はてな。船で逃げたか。駕籠《かご》で逃げたか……」  佐七は木戸をしめて、もとの茶室へ引きかえしたが、その途中で、なにやらやんわりしたものを踏みつけたので、あわてて跳びのいてかがんでみると、赤い房のついた花かんざしである。拾いあげてみると、まだ夜露にもぬれていない。  佐七はにんまり笑ってふところへ入れた。  茶室へとってかえすと、伊三郎がおびえたような顔をして、死体のそばに立っている。 「ああ、ご苦労さま。ちょっとおまえさんにききたいことがあってね」 「はい、あの、どのようなことで……」 「あっはっは、なにもそう固くなるにゃおよばねえ。この死体を、いちばんはじめに見つけたのは、おまえさんだったね」 「はい、あの、だんなさまのいいつけで、吉兵衛さんを呼びにきたところが、こんなことになっていましたので、ほんとにびっくりしてしまいました」 「しかし、そのときは行灯《あんどん》が消えて、この部屋は真っ暗だったんだろう。よくおまえにはこれがわかったね」 「いえ、あの、それですから、手さぐりに探っているうちに、吉兵衛さんのからだにさわったんです。それから、にちゃりとしたものにさわったので、びっくりしてよくよく見ると……あかりは消えていても、その布をとおして外の明かりがさしていましたので、目がなれてくると、部屋のようすがわかったんです」 「なるほど。それで、おまえの声をきいて、だんながたがここへかけつけてきたんだね。それから、みんなどうしたんだ」 「さっきの女はどうしたとおっしゃって、玄関から裏木戸のほうへ探しにいらっしゃいました」 「おまえ。それがどういう女だか知らねえか」 「存じません。だいいち、ここへ女が来ていたことすら、わたしゃ知らなかったんです」 「裏木戸が開いてるようだが、あれは宵《よい》から開いているのか」 「はい、だんなさまが開けておくようにと、寮番の留爺《とめじじい》にいいつけなすったんです。それから許しがあるまでは、だれもけっして裏木戸からこの茶室のまわりへ近寄ってはならぬと、だんながかたくいちどうにおっしゃったんです」  それはおそらく、吉兵衛の要請によるのであろう。吉兵衛はあくまで女がひとめにつくことを避けたかったのであろうが、その用心がけっきょく、身のあだとなったのである。なぜなれば、それゆえにこそ、下手人は自由にそこから出入りすることができたのだから。  佐七はだまって考えていたが、やがて、ふところからとりだしたかんざしを伊三郎のまえにつきつけた。 「おまえ、これに見おぼえはないかえ」  伊三郎はふしぎそうにそのかんざしを見ていたが、きゅうに大きく目をみはると、 「あ、こ、これはお町さまの……」 「なに、お町……? お町というのはだれだ」 「はい、あの、越前屋のお嬢さまでございます。ひつ粒だねのお嬢さまで……」 「なに、それじゃだんなのひと粒だねの……」  佐七はギョッとしたように息をのみ、しばらく伊三郎の顔を見ていたが、やがて、その目をふっとかんざしのうえに落とした。 それはいかにも小娘の好みにかないそうな、赤い房のついた花かんざしだったが、その房のひと筋が、ちぎれてなくなっている。 「お町さんというのはいくつだえ」 「はい、ことし十七におなりでございます。それはそれはきれいなおかたで……」 「十七といやア、もうそろそろご縁談がおありだろう」 「はい、あちこちから降るように……でも、お町さまが縁談をおきらいあそばして……」 「どういうわけで、縁談をきらうんだ」 「はい、あの……そこまでは存じません」  だが、そうこたえたとたん、伊三郎のほおが燃えるようにあかくなったのを、佐七は見のがさなかった。伊三郎は十九か二十、色白の、水の垂れるようなよい男振りである。  佐七はなにかいってからかおうかと思ったが、すぐまた思いなおして、 「ときに、おまえさんは今夜ここでなにがあったかしっているかえ」 「いいえ、いっこう……だんなのお供をしてまいりましたが、すぐむこうへ追いやられて、けっしてこっちへ来てはならぬといういいつけでございましたから……吉兵衛さんがどうしてそんななりをしているのか、ふしぎに思っているところです。なにか茶番でもあったんでしょうか」  伊三郎はほんとになにも知らぬらしく、いかにもふしぎそうな顔色である。 「あっはっは、ま、そんなようなものさ。しかし、伊三《いさ》さん」 「はい」 「このかんざしのことはだれにもいうな。うっかりしたことをしゃべると、おまえのかわいいお嬢さんに傷がつくかもしれねえぞ。あっはっは、まあいい、それじゃ、むこうへいって、もういちどだんなにここへ来るようにいってくれ」  伊三郎が不安そうな顔をして出ていくと、まもなく茂兵衛がやってきた。 「親分、なにか当たりがつきましたか」 「あっはっは、そうはいきませんや。まだ手をつけたばかりじゃありませんか」 「なるほど。それで、わたしに御用というのは」 「じつは、この二朱判吉兵衛のことですがね。こいつ、どういう素性のやつなんです。ずいぶん名高い太鼓持ちだが、なんでも、もとはそうとうのだんなだったというはなしを聞きましたが」 「ああ、この男ですか」  茂兵衛はちょっと哀れむように、 「この男はもと、わたしどもとおなじ商売の材木屋でした。むかしはわたしどもよりよほど羽振りがよかったんですが、道楽が過ぎたところへ、することなすこと、いすかの嘴《はし》とくいちがい、そこへもってきて、悪い番頭に持ち逃げされるやらで、いまから十五、六年まえ、すっかり微禄《びろく》したあげく、とうとう太鼓持ちになりさがったんです」  佐七はきらりと目を光らせて、 「なるほど。それじゃ、だんななど座敷へよんでも、やっぱりいくらか遠慮があったでしょうね」 「はじめのうちはそうでした。むこうからよんでくれというのでよびましたが、なんだか気づまりでねえ。しかし、それじゃ商売にならないから、遠慮なくバカにしてくださいって……妙な男で、ひとからバカにされると、とても喜ぶんです。それで、いつかむかしのこともわすれて、吉兵衛、吉兵衛とおもちゃにして、満座のなかでずいぶん変なまねもさせました」  素っ裸でふんぞりかえっている吉兵衛の脂ぎったからだを見ているうちに、佐七はなんともいえぬうすら寒さをおぼえるのである。吉兵衛ははたして、茂兵衛におもちゃにされて、ほんとに喜んでいたのだろうか……。  情けの捕り物   ——狂犬にかみつかれたと思いねえ—  さが野。——と、嵯峨様《さがよう》でかいた掛け行灯《あんどん》をくぐって、おかみさんに会いたいがと、名刺を通ずると、いったん奥へひきさがった女中が出てきて、 「あの、そこの横町へ曲がると内玄関がございますから、そのほうへおまわりなすって」  いわれたとおり内玄関からはいると、くつ脱ぎのうえに女の下駄《げた》が脱ぎ捨ててある。佐七はなにげなくその下駄を見ているうちに、ギョッとしたように目をみはった。下駄のしたから赤いひもがひと筋のぞいているのである。  佐七はあたりを見まわして、すばやく、下駄をとりあげた。赤いひもは下駄のうらの鼻緒のむすび目に、ひっかかっているのである。佐七はいそいで、それを引きちぎったが、そこへ足音がきこえたので、あわてて下駄をそこへおいた。 「さあ、どうぞこちらへ……」  出てきた女中に、 「お客さまですか」 「いいえ、どうして……?」 「くつ脱ぎのうえに下駄がありますから」 「ああ、それはおかみさんの下駄でございます。さっき外からおかえりになったので……さあ、どうぞこちらへ」  もう九つ(十二時)もすぎた真夜中ごろ、ほかの土地ならとっくに寝しずまったころあいだが、さすがに場所が柳橋だけあって、あたりにはまだなまめかしいざわめきがただようている。  女中に案内されて、佐七がおかみのお徳とむかいあったのは、おくまった小座敷だった。 「夜分にとつぜん押しかけてきてすみませんが、ちっとおかみさんにおたずねしたいことがありましてね」 「はい、あの、どんなことでしょうか」  お徳は三十五、六だろう。まだ色香のうせやらぬなまめかしい美貌《びぼう》の底に、料理屋のおかみとしての落ちつきと貫禄《かんろく》がそなわっている。 「今夜、黒江御殿でおこった一件を、おかみさんはご存じでしょうね」 「はい、さっきかえってきた芸者衆から聞いて、びっくりしているところです」  佐七はじっとその顔をみて、 「おかみさんは、今夜の趣向というのがどんなものだか、ご存じだったそうですね。いえ、おかくしになってもいけません。これは越前屋のだんなから聞きましたので」  お徳はまゆをひそめて、 「いいえ、かくしはいたしません。わたしもその相談の席にいたんですから。わたしずいぶんおとめしたんですが、だんなはあのとおり物好きなかたですし、それに吉兵衛というのが、金にさえなれば、どんなあさましいことでもやってのける男ですから」  と、お徳はきたないものでも吐き出すようにいいはなった。 「ところで、おかみさんは、吉兵衛のあいてをつとめた女というのを、ご存じじゃアありませんか」 「存じません。吉兵衛も、女がかわいそうだから、それだけは聞いてくれるなといってました」  佐七はちょっとひざをすすめて、 「しかし、おかみさん、おまえさんはこんや、どういうはずみでか、吉兵衛がだれをあいてにする気か、気がついたんだね」 「え、そ、それはどういうことで……」  お徳の顔にさっと不安の色がうごく。佐七はきっとその顔をみつめながら、 「おかみさん、吉兵衛は、こんやのあさましい見世物のあいてに、あろうことかあるまいことか、越前屋のお嬢さん、お町さんを使ったんだ。おまえはそれに気がついて……」  佐七のことばもおわらぬうちに、お徳の顔色がさっとかわると、いきなりその手がふところへとんだ。佐七はすばやくそれにとびつくと、お徳の手からもぎとったのは匕首《あいくち》である。  佐七はつめたく笑いながら、 「おかみさん、いやさ、お徳さん。おまえいったいどういうつもりだ。そのやせ腕でおれを殺す気か。それとも、自害する覚悟だったのか」  お徳はわっと泣きくずれると、 「親分さん、わたしを殺して。わたしは覚悟をきめているんです。そのかわり、お町……いえ、あのお嬢さんのことはないしょにして……」  佐七はふいに大きく目をみはると、 「おかみさん、越前屋のお嬢さんは、おまえとどういう関係があるんだ」  お徳は泣きぬれた顔をあげると、 「それをいわねば、親分さんは納得してはくださいますまい。お町は……お町はわたしが腹をいためた娘なんです」  佐七はまた大きく目をみはった。 「いまから十八年まえ、わたしがはじめてこの土地から出たじぶん、越前屋のだんなのごひいきになり、産みおとしたのがあの娘、さいわいおかみさんに子がなかったので、わらのうえから引きとられ、わたしどもは手を切りました。おかみさんがいいひとで、わが子のようにかわいがって下さいますので、お町をはじめ、だれもこのことはしらないんです」  佐七はふかいため息をついた。 「なるほど、それでわかった。いかに越前屋のひいきになっているとはいえ、他人の娘のために人殺しまでするとは、へんだと思っていたんだ。しかし、おかみさん、おまえはどうして、こんやの女がお町さんだと知ったんだ」 「駕籠屋《かごや》から聞いたんです。吉兵衛はこの近所から駕籠屋をつれて、材木町の本宅へいき、お町をだまして黒江町の寮へつれこんだんです。その駕籠屋がかえりにここへよって、お帳場でその話をしているのを聞いたときのわたしのおどろき、こんやあそこで変な見世物のあることは知っていました。また、吉兵衛があいての女をひたかくしにかくしているのを、ふしぎに思ってもいたんです。それに、吉兵衛の腹黒さを、わたしはまえから知っていました。だんなのおもちゃになって、えへらえへらと笑っているときでも、どうかするとすごい目つきになることを、わたしはまえから気がついていたんです。だから、ひょっとすると、その返報に、だんなの目のまえでだんなの娘をおもちゃにして見せるつもりではあるまいかと……そう気がついたものですから、とるものもとりあえず、すぐその駕籠で駆けつけたところが……」  お徳はくやしそうに涙をうかべ、 「かわいそうに、お町は吉兵衛のやつにおもちゃにされて……」 「そのお町さんは……?」 「お町は寮へつれこまれてから、強い薬をのまされたとみえて、正体もなく眠っていました。わたしはすぐに着物をきせて、駕籠にのせて本宅まで送っていくと、おかみさんにわけを話してわたしてきました。だから、今夜のことを知っているのは、わたしとおかみさんだけだと思っていたのに……親分さんはどうしてお気づきになったんですか」  佐七はかんざしと赤いひと筋のひもを出してみせると、 「これはお町さんのかんざしだが、これが茶室のまえに落ちていたんだ。そのことについて、おまえにきこうと思ってやってきたところが、くつ脱ぎのうえの下駄《げた》に、このひもがひっかかっていた。こりゃかんざしの房の一本だね。お町さんの鬢《びん》からかんざしが落ちたのを、おまえがしらずに踏みつけたところが、そのとき房のひと筋がちぎれて、下駄の裏にからみついたんだね。さては、おまえも今夜、黒江御殿へ出向いたのかと気がついたが、まさかおまえがやったとは……」 「恐れいりました」  お徳は神妙に手をついて、 「こうなったら逃げもかくれもいたしませぬ。どんなお仕置きをうけてもかまいません。そのかわり、親分さん、お町のことは内緒にして……あの娘はねていてなにもしらないんです。こんなことを知ったら、あんなやつに傷物にされたとしったら、とても生きてはおりますまい」 「おかみさん、あっしゃ吉兵衛の素っ裸の死体を見てきたよ」 「はい、それで……?」 「吉兵衛はさいごまで、おもいをとげちゃいなかったんじゃねえのか」 「はい、それがせめてものさいわいで……」 「そんなら、なにも傷物にされたとまで思いこむことはなかろうぜ。まあ、狂犬《やみいぬ》にかみつかれたくれえに思っていなせえ。それじゃ、おかみさん、この花かんざしとちぎれたひもは、おまえさんに預けておこう。焼きすてるなりなんなり、おまえさんのすきなように始末をつけてしまいねえ」 「え?」 「おかみさん、吉兵衛のやつは、こんやの見世物のあいてに、どこからかいかがわしい女をつれてきた。ところが、その女にゃいろがあって、そいつがこんやのことをかぎつけ、きわどいところへかけつけてきて吉兵衛を殺し、女をつれて逃げたんだ。しかし、あいての女がわからねえんだから、いかにこのおれでも手のつけようがねえ。おかみさん、この下手人はあがるめえよ」 「お、親分さん」 「花かんざしとちぎれたひもを、だれにも見られねえようにしなせえよ」 「あ、ありがとうございます」  わっと泣き伏すお徳をのこして、佐七はさっそうと立ちあがっていた。  お町はその後おもいがかなって伊三郎と祝言したが、ここにしらぬが仏は越前屋の茂兵衛である。  吉兵衛が死んでから、この世にとんとおもしろいことがなくなったと嘆くばかりか、吉兵衛殺しの下手人を憎むことしきりであったという。     からくり駕籠《かご》  雨夜の怪   ——駕籠《かご》から出たは切《き》り禿《かむろ》の女の子  またしても、人形佐七の手柄話。  例によって例のごとく、人形佐七が胸のすくような、腕をふるおうというのだが、その発端というのは、だいたいつぎのとおりである。  浅草福井町にすむ駕籠《かご》かきで、権三《ごんざ》と助十というふたりの棒組。これが空駕籠かついで、日本橋は弓町のへんをとおりかかったのは、秋のはじめの、いまにも雨のおちてきそうな陰気な晩のことだった。  秋のはじめといっても、朝晩などはもうはだ寒い。それに、その晩ふたりは、麻布のおくまで客を送っていったので、弓町へさしかかったときには、もうすっかり夜もふけわたって、石町の鐘が、四つ(十時)をうつのがかぞえられた。 「おや、もう四つか」 「しようがねえな。これで浅草へかえれば四つ半(十一時)か。また路地口をあけてもらうのに、いえぬしのでこぼこおやじのしかめっつらをみなきゃならねえ」 「まったく、あのいえぬしほど因業なやつはねえぜ……とはいえ、毎晩四つをすぎちゃ、おやじがしかめっつらをするのもむりはねえな。これをおもえば、駕籠かきほどつれえ商売はねえ。今夜だってよ、日が暮れてから、本所の法恩寺わきから、麻布の奥まで、たいてい楽な仕事じゃねえ」 「それをいっちゃいけねえ。おかげで、たんまり酒手にありついたんだ。これで、あした雨にでもなってみねえ。安心して、骨休めができるというもんだ」 「ほんにそうだ。おや、うわさをすればなんとやらで、どうやらポツポツ……あ、ハークションだ」 「それみろ、いわねえことじゃねえ。本降りにならねえうちに、福井町までかえろうぜ」  と、足いそがせて、弓町の角をまがろうとしたときである。 「これこれ、駕籠屋」  と、真っ暗な軒下から、呼びとめたものがある。 「へ、へえ!」  あまりだしぬけだったので、権三と助十、ちょっと度肝をぬかれたかたちだが、そこはながねんの商売である。本能的にうけこたえして、駕籠をとめると、 「福井町までかえるなら、もどり駕籠だ。柳原まで送ってくれぬか」  あとから考えると、そういう声からして、だいいち妙だったのである。口に綿でもふくんだような、陰にこもって、不明瞭《ふめいりょう》な声だった。  しかし、そのときはふたりとも気にもとめずに、 「へえ、柳原のどのへんで」 「柳原堤のはずれでよい」  柳原堤のはずれといえば、ちょうど浅草へかえる道筋である。どうせおそくなりついでだ。ここでひとかせぎするのもわるくはないと、権三と助十すばやく相談すると、駕籠代もおれあい、 「では、やっかいになるぞ」  と、軒下から出てきた客のすがたをみて、権三と助十、はじめて妙な気持ちがした。  客というのは宗十郎|頭巾《ずきん》をかぶり、ながい雨合羽で、スッポリからだをつつんでいるのだが、おそろしく背のひょろたかい人物である。いや、背がたかいのみならず、どこかからだの関節に調子のくるったところがあるらしく、駕籠にのるのにかなり骨が折れるようすだった。  だが、それものちになっておもいだしたくらいのもので、そのときはたいして気にもとめなかった。あいてが頭巾で顔をかくしていようが、からだの調子にくるいがあろうが、こちらは駕籠代にありつきさえすればよいのである。しかも、とりきめた駕籠代は、もどり駕籠としては法外のものだった。  どうやら、雨は本降りになってきたらしく、どこやらで雷の音がゴロゴロする。権三と助十はおのずから足をはやめて、柳原堤のはずれまでくると、 「もし、お客さん、お約束の柳原までまいりましたが、どのへんへ着けますんで」  と、先棒の権三が声をかけたが、駕籠のなかから返事がなかった。 「もし、柳原堤のはずれといえば、ちょうどこのへんにあたりますが……」  棒組の助十も声をかけたが、あいかわらず返事がない。ふたりはおもわず顔を見合わせた。 「おい、相棒、お客さんはねむっていらっしゃるのじゃねえか」 「そうかもしれねえ。ともかく、駕籠をおろしておうかがいしろ」  とんと駕籠を地面におろして、ふたりがなかをのぞきこもうとしたときである。 「ああ、ご苦労さま、ここでいいのよ」  思いきや、駕籠のなかからきこえてきたのは、鈴をふるようなかわいい声。  権三と助十、あっと息をのんで立ちすくんだが、その目のまえへ、パラリとなかから垂れをめくってとび出してきたのが、なんと、十四か十五の女の子ではないか。 「げっ、お、おまえさんは……」  あまりのことに、権三と助十、息づえつかんだまま棒立ちになってしまったが、それをしり目にくだんの少女、 「おじさん、お駄賃《だちん》、これでいいんだね」  と、パラリと小銭を投げだすと、そのまんま柳原堤の茂みのなかへかけこんだが、そのとたん堤にはえた柳の木に、さーっと青白い火柱が立って、ものすごい雷鳴とともに、猛烈な雨が沛然《はいぜん》としておちてきたから、権三と助十、すっかり色をうしなって、 「わっ、で、出たア!」  空駕籠かついで二、三町、足もそらににげだした。てっきり、狐狸妖怪《こりようかい》のたぐいと思ったのである。  名作|般若面《はんにゃめん》   ——それが半鐘どろぼうみたいに背がたかく 「——というわけで、親分、あっしゃちかごろ、こんな妙な目にあったことはございません」  昨夜から降りつづいている雨をおかして、権三と助十がお玉が池の佐七のところへやってきたのは、つぎの日の日暮れごろのことだった。ゆうべの夢がまださめぬのか、どう見てもふたりの顔はまがぬけている。  佐七は辰や豆六と顔見合わせると、 「ふうむ、そいつは妙なはなしだな。するとなにかえ、はじめは、背のひょろたかいお武家だったのが、いつのまにか、駕籠のなかで、十四、五の小娘に変わっていたというんだな」 「へえ、さようで。まったく、きつねにつままれたようなはなしで」  きゅうくつそうにひざ小僧をそろえた権三と助十、かなつぼまなこをパチクリさせている。 「そして、とちゅうで駕籠をおろしたようなことは、こんりんざいねえというんだな」 「へえ、そんな覚えがあるくらいなら、なにもあんなに面食らうことはなかったんです」 「ふむ、そして、そのお武家というのは、いったいどんな風体だったえ」 「それがいっこう……」  権三は頭をかきながら、 「さっきも申しましたとおり、そのときは気にもとめておりませんでしたし、それに、あいにくのくらやみで……ただ、覚えているのは、いやに背のひょろたかい、妙なからだつきをしたやつでございました。なあ、助十、そうだったなあ」 「へえ、兄いのいうとおりで……それに、頭巾《ずきん》で顔をかくしておりましたので……」 「どんな面構えかわからなかったというんだな。そして、小娘というのは?」 「さあ、それも……」 「なにしろ、とっさの出来事ですし、それにあんまりびっくりしたものですから……どうもすみません」  人のいい権三と助十、まるで、じぶんがわるいことでもしたように、首をすくめて頭をかいている。佐七はにが笑いをしながら、 「なにもあやまることはねえが、しかし、それが十四、五と年ごろのわかったのは?」 「そりゃなんで。ピカッと光ったひょうしに、髪を切《き》り禿《かむろ》にしているのと、あかい兵児帯《へこおび》をねこじゃらにむすんでいるのが見えましたんで」 「ふうむ」  と、佐七は考えこんだが、そのとき、したり顔にひざを乗りだしたのは、さっきから神妙に話をきいていたきんちゃくの辰。 「なアるほど。こいつはけぶなはなしだが、ねえ、親分、こう考えちゃどうでしょう。宗十郎頭巾でつらをかくしていたお武家が、駕籠のなかで小娘に姿をかえたと考えたら……もっとも、なんのためにそんなことをしたのかわからねえが……」  辰のことばのおわるのも待たず、権三と助十は手をふって、 「いえ、それはいけません。そんなことなら、ゆうべ助十とはなしたのですが、姿形はかえることができるとしても、承知のできねえのはからだの寸法で」 「兄貴のいうとおりで。そりゃ衣装をかえることはできるとしても、からだの寸法をつめるわけにゃいきませんからね。なにしろ、はじめのお武家というのは、半鐘どろぼうみてえにおっそろしく背のたかい男なんで」 「なアるほど」  辰はせっかくの思いつきを一言のもとにはねつけられたので、すっかりしょげかえってしまったが、そのときかわってしゃしゃり出たのは、うらなりの豆六である。こうなると豆六たるもの、一言なかるべからずである。 「ちょっと、権三はんに助十はん、ちとお尋ねいたしますけんどな……」  豆六は、おつにおさまった切り口上で、 「さっきからお話はここで聞いていましたが、そのお武家はんちゅうのんは、からだの調子がおかしかったいやはりましたな」 「へえへえ、なにかこう、駕籠に乗るのもたいぎそうで、いかにも乗りにくそうでございました」 「それについて、親分、わてはこないに考えるんやが、どうだっしゃろ。そいつ、竹馬に乗ってたんやおまへんやろか」  豆六は得意満面、鼻たかだかといいきったが、あいにくと、それを聞くなり、プッと吹きだしたのは権三と助十。 「おことばですが、豆六さん、あっしがいかにぼんやりでも、竹馬に乗ってりゃ気のつかねえはずはございません」 「そいつはたしかに、じぶんの足で歩いてましたぜ」  と、一言のもとに打ち消されて、豆六もたちまちぺしゃんこである。  佐七は無言で、なにやらしきりに考えていたが、やがて、権三と助十のほうへむきなおると、 「それはそれとして、権三と助十さん、そんなことがあったのなら、なぜ、けさ早くしらせてくださらねえのだ。いまは、かれこれ七つ(五時)。おまえさんたち、いままでなにをしていなすったんだ」  きかれて、権三と助十は、顔見合わせてモジモジしていたが、やがて権三が頭をかきながら、 「親分、それなんで。じつは、こんな話、あんまり体裁のいい話じゃありませんし、それに、なにもそれがために、だれに迷惑をかけたというわけじゃありませんから、いっさいだんまりでいようと、ゆうべ棒組とかたく約束したんです。ところが……」 「ところが……?」 「ところが、親分、こうなんで」  と、権三にかわって、ひざ乗りだしたのは助十で、 「ゆうべのことがありますし、それに、きょうは朝からの雨で、商売はいちにち休みということにして、駕籠もゆうべかついでかえったまま土間におっぽり出しておいたんですが、それをさっき、なんの気もなく調べてみると……」 「ふむ、それで」 「こんなものが、駕籠のなかに、おきわすれてあったんです」  と、権三がふろしき包みをひらいてみせると、なかからでてきたのは、りっぱなきりの箱である。  佐七をはじめ辰と豆六、いったいなにが飛びだすかと、おもてもふらずにながめていたが、やがて権三がふたをとると、三人ともおもわず大きく目をみはった。箱のなかからでてきたのは、世にもものすごい般若《はんにゃ》の面。  くせ者|挑戦《ちょうせん》   ——般若の面箱が消えてしまった 「親分、おまえさん、これをどうお思いで。お武家が小娘にかわったなんて、あんまりバカバカしいじゃありませんか。あいつら、なにかうしろ暗いところがあって、そんな話をでっちあげたんじゃありますまいか」 「そやそや、これは兄いのいうとおりや。あいつら、この面をネコババするつもりやったが、何かぐあいのわるいことがあったもんやで、あないな話の筋をとおしよったんやおまへんやろか」  おきわすれた般若の面は、ひとまず預かることにして、権三と助十をかえしたあとである。辰と豆六がかわるがわる疑問のふしを語るのを、佐七はかるく片手でおさえ、 「いや、そうじゃあるめえ。あいつらにそんな作り話のできるような知恵があるとはおもえねえからな。これにはなにか、ふかい子細があるにちがいねえが、万事はこの般若の面が語ってくれるだろうぜ」 「へえ、この面が……?」 「辰、豆六、おまえたち、さっきのはなしとこの面を結びつけて、なにかおもいあたるところはねえか」 「はてな。さっきの話とこの面と……豆六、てめえ、なにか心あたりがあるか」 「こうっと。もどり駕籠《かご》と般若の面やな。親分、三題話にしては、題がひとつ足りまへんがな」 「なにをいってやアがる。権三と助十のもどり駕籠が大男お武家をひろったのは、弓町の角だといったろう。弓町には、お能の家元、観世の住まいがあるはずだ。この面はそこから出たにちがいねえぜ」  能楽四座でもその筆頭に推される観世の家元は、幕府から扶持《ふち》をもらい、代々弓町に屋敷を賜っていた。だから、世間では観世の家元のことを、弓町の師匠とよんでいる。  だから、佐七が弓町という町の名と般若の面から、すぐに観世の家元を連想したのは、決してハッタリではなかったのである。  なるほど、その面のうらには、池の丹後という銘がはいっている。池の丹後といえば、東山時代の名人面作りである。 「あいつら、もうすこしはやく持ってくればしようもあるものを、こう日が暮れちゃしかたがねえ。いずれはあすのことにしようよ」  と、その夜ひと晩、丹後の面を手元においたのが不覚のもと、夜が明けてみると、こはそもいかに、たんすのうえにおいてあった般若の面が煙のように消えていたから、さすがの佐七も唖然《あぜん》とした。 「お粂、おまえ、ここにおいてあった箱を知らねえか」 「ああ、あの般若の面の……あら、どうしたんでしょう。おまえさん、どこかへ片付けたんですか」 「べらぼうめ、じぶんが片付けたものなら、おまえに聞くかい。おい辰と豆六をおこしてこい。あいつらがどこかへしまったのかもしれねえ」  しかし、その辰も豆六もしらぬという。しかも、家じゅう調べてみたところが、戸じまりという戸じまりはぜんぶ内側からしてあるのだから、いちどういよいよきつねにつままれたような顔色である。ただひとつ台所の天窓がひらいていたが、五つ六つの子どもならいざしらず、とても一人前の男が忍びこめるような大きさではなかった。 「はて、面妖《めんよう》な……やな。親分、こらやっぱりたぬきのいたずらとちがいまっしゃろか」 「バカをいえ。それより、親分、おまえさん寝ぼけて、どこかほかへしまいこんだのとちがいますかえ」 「なにをいやアがる。てめえじゃあるまいし。おい、豆六、家のまわりに足跡かなんかのこっていねえか、調べてこい」  ゆうべの雨は、五つ(八時)ごろにはやんだはずだから、その後になってくせ者が忍びこんだものとすれば、家のまわりのぬかるみに足跡がのこっていなければならぬはずである。ところが、それもなかった。 「畜生ッ、こうこけにされちゃ、指をくわえてひっこんでるわけにはいかねえ。辰、豆六、おおいそぎで飯にしろ」 「おっと、合点だ」  それからまもなく、三人がやってきたのは弓町にある観世のすまいの近所だが、そこまでくると、近所がなんとなくいろめき立っている。何事がおこったのかとたずねてみると、 「おや、親分はご存じなかったんですか。ゆうべ、むこうのお稲荷《いなり》さんで、人殺しがあったんです」 「えっ、人殺しが……?」 「へえ、殺されたのは、もと観世の内弟子だった新八さんというひとですが、それがあなた、般若の面をかぶったまま、絞めころされているんです」  三人はそれをきくと、おもわずあっと顔見合わせた。  清濁観世水   ——お師匠さまがお目にかかりたいと  からくり駕籠《かご》の一件も一件だが、人殺しがあったとすれば捨ててはおけない。それに、死人が般若の面をかぶっていたとすれば、からくり駕籠の一件とも、なにかつながりがあるのかもしれぬ。そこで、佐七はすぐその足で現場へでむいていったが、死体はすでに近所の自身番へひきとられていた。  佐七はそこでひととおり現場をしらべたのち、自身番へ顔をだしたが、検視もすでにおわったとみえ、死体のうえには菰《こも》がかぶせてあった。 「おや、お玉が池の親分さん、辰つぁんも豆さんも、ご苦労でございます」  詰めていた町役人があいさつをするのへ、 「大家《おおや》さん、ご近所で変なことがありましたってねえ。さっそくですが、死体を見せてもらいますよ」  菰をめくってみると、死人というのは二十七、八、五分さかやきの、ちょっとすごみな男振りだった。なるほど、絞めころされたとみえて、のどのあたりにありありと紫色の指のあとがついている。 「大家さん、こりゃあ、観世のうちのものだというが……」  手を洗って佐七がもとの座へかえってくると、 「親分、まあ、お茶でもおあがんなさい」  と、町役人は茶をすすめながら、 「へえ、さようで。新八さんといって、もとは観世の内弟子だったんですが、さきごろわけがあって破門されたということです」  町役人の語るところによるとこうである。  能楽四座のなかでも重きをなす観世流は、観阿弥《かんあみ》、世阿弥から連綿と、観世水の流れをくむ家柄で、当時の家元は鉄之丞《てつのじょう》といって、当年とって四十三の男盛り。  いまだ子供のないところから、家督の儀は弟子のなかから選ばれるであろうとうわさされていたが、そのなかでももっとも嘱目されていたのが、新八という若者。  このものは幼いときから修行の功をつんだだけあって、師匠におとらぬ技量といわれたが、うまれつき心ねじけ、とかく素行がおさまらぬところから、さすが温厚な鉄之丞も、堪忍袋の緒をきって破門放逐した。  泣いて馬謖《ばしょく》を切ったのである。ところが、あくまで心のまがった新八は、爾来《じらい》、ますます身を持ち崩し、鉄之丞にむかってさかんにいやがらせをした。盾をつくようなまねもした。 「酒を飲んであばれこむようなことも二、三度あったらしく、観世のほうでもほとほと持てあましていたようです」  町役人の語る話を、佐七はだまって聞いていたが、ふと思い出したように、 「ときに、この死人は般若の面をかぶっていたということですが、その面はどこにあります」 「ああ、その面のことですが」  と、町役人はまゆをくもらせ、 「新八さんが般若の面をかぶって殺されているときくと、観世の主人が青くなって駆けつけてまいりまして、この面は、さるやんごとない人からの預かりものだから、返してくれといって、むりやりに持ちかえったそうです」 「なんだ、それじゃ、観世の主人が、だいじな証拠を……」 「はい、さようで……そのあとへ、八丁堀《はっちょうぼり》のお役人衆がみえられて、大切な証拠を持ちかえるとはけしからんと、観世のほうへ談じこみましたが、まだらちが明かぬようでございます」  佐七はだまって考えていたが、やがておもいだしたように、 「ときに、観世の屋敷には、いま、どういうひとがいるんですか。鉄之丞さんの奥さんは、たしか先年亡くなったときいておりますが……」 「さあ、わたしもくわしいことは存じませんが、新八さんが出たあとは、小四郎という若いひとが、お弟子がしらをつとめているようです。なんでも、このひとが、新八さんにかわって、観世のあとをつぐのだという話ですね」 「ほかに、十四、五の切《き》り禿《かむろ》にした娘さんはいませんか」 「ああ、お鶴《つる》さんでしょう。でも、お鶴さんはもう十四、五という年ごろじゃありません。十六、七にはなるでしょうね。いつも切り禿にしておりますが……」  佐七は辰と豆六をふりかえり、にんまり笑うと、 「そして、そのお鶴さんというのは、観世の家元といったいどんな関係があるんです」 「さあ……わたしにもよくわかりませんが、うまれは三河とかきいております。雛丸《ひなまる》といって、七つ八つの弟があるのですが、たいそう声がよく、謡の筋もよいので、観世の師匠も掌中の玉とかわいがっているそうです」 「なるほど、それじゃ姉弟で観世の食客《かかりうど》になっているんですね」 「ええ、まあ、そうです」  佐七はまたなにかふかく考えこんだが、そのとき自身番のおもてから、おずおず顔をだした若者がある。町役人はその顔をみると、そっと佐七のそでをひきながら、 「おや、これは観世屋敷の小四郎さん、なにかご用で……」  観世屋敷の小四郎——ときいて、佐七は目をそばだてたが、あいてはまだ二十二、三の、色白の気の弱そうな若者である。小四郎はまぶしそうに一同の視線をさけながら、 「はい、あの、こちらにお玉が池の親分さんがおみえになっているときいて、お師匠さんがぜひお目にかかりたいと……」  お鶴雛丸《つるひなまる》   ——無惨や般若《はんにゃ》の面は打ち砕かれて  観世の家元といえば、二百五十石、幕府から扶持《ふち》をいただいて、将軍の御前能のほかはめったに演ぜぬという権式だが、身にかかる火の粉は払いきれない。鉄之丞は沈痛な面持ちをして、佐七とむかいあっていた。 「お玉が池の佐七というのは、そなたのことかえ」 「はい、あっしが佐七でございますが、ご用とおっしゃるのは?」  鉄之丞はなにかしらおもい惑うているふうだったが、やがて思いきったように、 「用というのはほかでもない。佐七、この面を見てくれい」  鉄之丞が床の間から取りあげてみせたのは、昨夜、お玉が池の佐七の家から盗み去られた般若《はんにゃ》の面と、寸分ちがわぬ面だった。 「ああ、この面ですね。殺された新八さんがかぶっていたというのは?」 「いかにも、さよう。それについて、佐七、そなたを男と見込んで、この鉄之丞、身にかえてのだいじな頼みがある」  なにかはしらぬが、おおげさなきりだしかたに、佐七もからだをひきしめて、 「へえ、そりゃ子細によっては身を粉にしてもはたらきますが、して、そのお頼みというのは?」 「されば、この面の子細から話さねばならぬが、これなる般若の面は、わたしのものではない。これは将軍家よりお預かりしているだいじな宝物。しかも、毎年九月九日の佳節には、この面をつけて御前能を演じるのがわが家の家例となっている。されば、この面を紛失、あるいは傷つけるときには、どのような重いおとがめを受けるやもしれず、悪くいけば観世の流れに……」 「なるほど、わかりました。それだからこそ、新八さんはこれを盗みだそうとしたのでございますね。しかし、こうしてぶじにもどったうえは、なんの子細もないはずで……」 「ところが……その面は偽物なのだ」 「えっ、偽物?」 「いかにも、素人目には鑑別できずとも、まぎれもない近ごろできの偽物。九月九日といえばもう明日。明日までに本物がでぬときは……」  鉄之丞の顔色は、藍《あい》をなすったようにくもっていた。佐七も胸をつかれるおもいでしばらく面をみていたが、やがて、ふとあることに気がついたのである。  この面はじっとりとぬれて、湿気が木目の底までしみとおっている。これすなわち、ゆうべ雨に打たれた証拠である。いいかえれば、新八がころされたのは、まだ雨の降っていた五つ(八時)まえだったにちがいない。ところで、そのじぶんには、佐七の家にはまだ面箱があったはずだ。してみれば、あれとこれとはまったく別物。すなわち、ゆうべ佐七の宅から持ちだされた品こそ、本物の丹後の面だったのではあるまいか。 「ときに、お師匠さん、あなたが面の紛失にお気づきになったのは、いつのことでございます」 「それは昨日の朝のことであった」 「なるほど。すると、本物が盗まれたのは、一昨日の晩ですね。ときに、お師匠さま、こちらにお鶴《つる》さんという娘さんがやっかいになっているそうですね」 「お鶴——? お鶴という娘ならいるが、あの娘がどうかしたのか」 「いや、ちょっと会ってみたいのですが、ここへ呼んでみちゃくださいませんか」  鉄之丞は不審らしい面持ちだったが、すぐ手を鳴らしてお鶴を呼んだ。  お鶴というのは十六、七、切《き》り禿《かむろ》にした顔立ちもあどけなく、立ち居振る舞いもしとやかに、いかさま尋常の奉公人とは思えぬひとがら。 「お師匠さま、なにかご用でございますか」 「おお、お鶴か。ここにおいでになるご仁が、そなたになにか用じゃそうなが」  佐七はじっとお鶴のひとみに目をそそいでいる。お鶴は不審そうに、佐七の視線をみかえしたが、佐七はなおも無言である。無言のうちに視線と視線がからみあい、なんとなく緊張した数秒間……。  だが、ついにお鶴は負けたのである。うつくしいひとみに、かすかな動揺がおこるとともに、つるりとほおをつたったのは脂汗のひとしずく。  佐七はそれをみると、にんまり笑った。 「お鶴さん、おとといの晩は大変でしたね」 「えっ!」 「いえさ、弟の雛丸《ひなまる》さんを肩車にして、そのうえからながい雨合羽をはおり、背高のっぽのお武家に化けるなんざ、なかなかバカじゃできねえ芸当だ」 「まあ、それはなんのことでしょう」 「なんのことだか、胸にきけばわかるだろう。そうしてまんまと駕籠屋《かごや》をあざむいたのは、のちになって面の紛失がわかったとき、背高のっぽのくせ者に疑いの目をむけるためだ。ところが、そこはかよわい女のこと、駕籠のなかにいるうちに、どうにも肩車がしきれなくなった。そこで、雛丸さんを肩からおろすと、娘になって飛びだしたんだ。そして、駕籠屋が驚いているうちに、雛丸さんも駕籠のうしろから抜けだした。はっはっは、これがほんとの駕籠抜けというやつさね」 「あれ、そんなこと……」 「いいから、さきをききねえ。こうして駕籠屋の目はあざむいたが、うっかり面箱を駕籠のなかへおきわすれた。そこで、駕籠屋がしゃべっていた福井町というのをたよりに、きのうの夕方出掛けたが、ちょうどそのとき、権三と助十、面箱もっておいらのところへくる途中だったのだ。そこで、あとをつけてふたりが、面箱をおいらのところへ預けていったことをつきとめたが、正面切って取りもどしにくるわけにはいかねえ。そこで、夜の更けるのを待って、またぞろ雛丸さんをつかい、となりの屋根から屋根づたい、天窓からなかへ忍びこませ、まんまと面箱を持ちださせた。だから、戸じまりはうちからしてあるし、家のまわりにゃ足跡もなかった。しかも、面箱は煙のように消えていたというわけさ。はっはっは、お鶴さん、いたずらもたいがいにするもんだ」  お鶴はうつむいたまま、わなわな肩をふるわせている。鉄之丞はあきれたようにお鶴のようすを見守っていたが、そのときである。だれか障子の外をはなれて、バタバタむこうへ駆けていく足音。  佐七はギョッとして、障子の外へとびだしたが、みれば七つ八つの男の子が、いましもまわり縁のむこうへ姿を消すところだった。 「あっ、しまった。立ち聞きしていやアがったな。辰、豆六、どこにいる。あの小僧をつかまえろ!」  言下に辰と豆六がとびだしてきて、子どものあとを追っかけたが、ときすでに遅かったのである。  一同が雛丸の部屋まで駆けつけたときには、ああ、むざん、鉄之丞が身にかえても守らねばならぬ丹後の面は、座敷のまえの蹲台《つくばい》に、こっぱみじんと打ち砕かれ、そのそばには玄能片手に雛丸が、狂犬《やみいぬ》みたいに目を光らせているのである。  鉄之丞はいっしゅん棒を飲んだように立ちすくんでいたが、やがて悲痛な声をふりしぼり、 「お鶴、雛丸、おまえたちはこの鉄之丞に、いったいなんの恨みがあって……」 「お師匠さま、すみません、すみません」  お鶴はわっと泣きだした。 「大恩うけたあなたさまに、姉弟《きょうだい》ふたりがお背きするのは、そら恐ろしゅうはございますが、あなたは親のかたきゆえ……」 「なに、わしがおまえたちの親のかたきとは……?」  温厚な鉄之丞、寝耳に水とおどろいている。 「はい、あなたさまにおぼえのないのはごもっとも。こういう子細でございます」  お鶴、雛丸の家は三州|岡崎《おかざき》の郷士だったが、姉弟の父|斧右衛門《おのえもん》というのが、岡崎|世阿弥《ぜあみ》とよばれるくらいの謡曲の名人。おりおりはご領主のお呼びだしにもあずかるほどだった。  むろん、どうせ田舎名人のこと、とうてい本職のお能役者にはおよぶべくもなかったが、人が江戸の観世もおよぶまいとおだてれば、本人もその気になって増長慢心、われこそは流祖世阿弥の再来ぞと、高慢の鼻をたかくしているところへ、たまたまその地へ来遊したのが八年まえの鉄之丞。  斧右衛門のうわさをきくと、おのれ生意気なやつ、高慢の鼻をへし折ってくれようと、わざと名を秘し、芸道くらべを申し込んだが、その結果は説くまでもあるまい。井のなかのかわずの斧右衛門は、当代の鬼才とうたわれた鉄之丞のまえにでれば、蚊の鳴くようでしかなかった。 「ところが、あとであなたさまのご素姓がわかったとき、父はどのようにくやしがったでございましょう。なまじ名前をかくされたばかりに、観世の家元にむかって芸道くらべ、あげくのはてが物笑いのたねになって、恥ずかしいやら、口惜しいやら……」  と、強情我慢の男だけに、また落胆も大きくて、気病みのはてが首をくくって……と、きいていた鉄之丞はおどろいた。 「おお、それでは、そなたたち姉弟は、斧右衛門どののわすれがたみであったか」 「はい、それゆえ、親のかたきを報じようと、このお屋敷へ住みこみましたが、いろいろお世話をうけているうちに、とかく志も鈍ってまいりました。これではならじと、一昨日、お面を盗み出しましたのは、たといわずかのあいだでも、あなたさまに苦しみをなめさせ、それで亡父のうらみを晴らそうと……まさか、うちこわしてしまおうとまでは思いませぬものを……」  幼い雛丸が勘ちがいして、とうとう打ち砕いてしまったのである。鉄之丞はほっとふといため息ついて、 「いや、これも運命であろう。若気のいたりで斧右衛門どのを辱めた報いがめぐってきたのであろう。よいよい、お面を失った罪は、この腹切って……」  鉄之丞はそういいながら、お面のかけらを手にとって感慨ぶかげにながめていたが、急におやと目をみはると、あわててほかのかけらを拾った。さらにまた、二つ三つとかけらを集めて、食いいるようにながめていたが、急にさっと喜色をうかべ、 「こ、こ、これはどうしたものであろう。このお面も偽物じゃぞ。新八のかぶっていたのも偽物なら、雛丸が打ち壊したのもやっぱり偽物。おお、それでは本物はどこにあるのじゃ」  さっきから、一同のうしろに立ってこの場のなりゆきを見詰めていた小四郎の顔色が、とたんにさっと変わったのを、佐七はそのとき、見逃さなかったのである。  面作り名人気質   ——おいらは逆上性で耳がきこえぬ 「親分、親分、かかしじゃあるめえし、こんなところに立っていて、いったい、なにを待っているんです」 「しっ、だまってもうすこし辛抱しろ」 「そら、辛抱せえとおっしゃるなら、一刻《いっとき》でも二刻でも辛抱しますけど、そんならそうと、わけぐらい話してくれやはってもよさそうなもんやおまへんか。親分、あんたの待ってなはるのは、お鶴だっか、雛丸だっか」 「ちょっ、よけいなことをいわずに、待ってろといえば待っているんだ。どうせ長いことじゃねえ。もうそろそろ出てくるじぶんだとおもうんだが……」  そこは観世屋敷の塀外《へいそと》である。むこうに裏木戸のみえる町角に、人目をしのんでたたずんでいるのは、いわずとしれた人形佐七に、子分の辰と豆六である。時刻は夜の五つ(八時)すぎ。三人はかれこれ一刻も、そこにそうしてたたずんでいるのである。 「親分、親分……」  辰がまたなにかいいかけたとき、とつぜん、観世屋敷の裏木戸がギイとひらいて、くらやみのなかへ出てきた人影。三人はそらきたとばかりにやみのなかで息をころしている。  人影はしばらくあちこちとうかがっていたが、やがて足を早めてスタスタと、こちらのほうへやってくる。三人はすばやくものかげに身をかくした。そうともしらず、その鼻先を、思案ありげに首うなだれて通りすぎていったのは……。 「親分、あら小四郎やおまへんか」 「しっ、黙ってあとをつけるんだ。辰、てめえは大急ぎで、観世の師匠を呼んでこい」 「おっと合点だ」  辰はバラバラと観世屋敷へ駆けこむと、すぐに鉄之丞をつれてきた。 「佐七、わたしになにか用か」 「お呼びたてしてすみません。あなたさまもいっしょに、あのひとをつけていただきたいので」  鉄之丞はむこうを行く人影をすかしてみて、 「あっ、ありゃ小四郎じゃないか。小四郎がなにか……」 「いまにわかります。黙ってついてきて下さい」  師匠をはじめ四人の男がつけてくるとしるやしらずや、小四郎がそれからまもなくやってきたのは薬研堀《やげんぼり》の裏町である。  このへんまでくると、小四郎の足どりは、急に用心ぶかくなった。そわそわと、暗い夜道のあとさきをながめていたが、やがて、つとすりよったのは、一軒の格子先。ほとほとと格子をたたきながら、 「能阿《のうあ》さん、能阿さん、ちょっとおきてください」  と、小声に呼ぶ声をきいて、鉄之丞ははっとしたように息をのんだ。佐七はそれを横目で見ながら、 「ご存じですか。能阿というのを……?」 「しっている。能阿といえば、当代きっての面造りの名人。それにしても、小四郎はなんだってこの夜更けに人目をしのんで能阿のところへ……」  面造りの名人ときいて、佐七はにんまり笑ったが、 「まあ、もうすこしようすをみていましょうよ。いまにわかりますよ」  小四郎はしばらく格子をたたいていたが、返事のないのにいらだったのか、こじあけるようにして格子をひらくと、能阿のすまいへ踏み込んだが、まもなくきゃっという叫び声。  それをきいて、佐七をはじめ一同バラバラと駆け出すと、小四郎のあとから飛びこんだが、とたんにあっと立ちすくんだのである。  仕事場の梁《はり》からひもをたらして、首をくくっているひとりの男。しかも、その男は、般若の面をかぶっているではないか。そばでは小四郎が、真っ青になってふるえていたが、はいってきた師匠の顔を見ると、狂気のごとく、 「ああ、お師匠さま、助かりました。丹後のお面は助かりました。能阿がかぶっているあの面こそ、正真正銘の丹後の面でございますよ」 「しかし、能阿がどうしてあの面を……?」  鉄之丞は目をパチクリさせている。小四郎は決心したように、佐七のほうへむきなおり、 「お玉が池の親分さん、わたしを縛ってくださいまし。新八どのを殺したのは、このわたくしでございます」 「なに、小四郎、おまえがどうして新八を……」 「はい、お師匠さま、おききくださいまし。かようでございます」  新八が放逐後の観世の行く末は小四郎と、ひとからうわさされるだけに、小四郎は心苦しかった。いかにもじぶんが兄弟子を追いだし、そのあとがまに直ろうとするかのようにひとにみられるのが、気立てのやさしい小四郎には耐えられなかった。  そこで、かれは内々、新八の面倒をみるかたわら、師匠にもとりなして、ふたりの仲をむかしにもどそうと苦心していた。ところが、そういう小四郎のやさしさにつけこんだのが新八だ。  かれは小四郎に、丹後の面を盗みだすことを命じた。その面をたねに、脅迫的に、破門をゆるされようというのが、新八の魂胆だった。  もし小四郎がそれをきかねば、屋敷に火をつけ、師匠を殺すとおどかした。師匠を思い、新八を思う小四郎は、進退ここにきわまったすえ、一計を案じた。かれはひそかに丹後の面を持ちだし、能阿に偽物をつくらせたのである。  そして、本物はもとへもどし、偽物を新八に渡したのだが、新八とても芸道の名人、まもなくその偽物なることを看破した。 「そこで、ゆうべ、振《ふ》り袖稲荷《そでいなり》へわたしを呼びだし、またぞろいろんな難題を持ちだします。しまいにはやけになって、これから師匠のうちに火をつけるなどと申します。それを止めようと争っているうちに、つい腕に力が入ったかして、気がついたときには兄弟子は……」  小四郎はそこであふれる涙をぬぐうと、 「そのときもおどろきましたが、それよりも、きょう雛丸の打ち砕いたあの面が、やっぱり偽物だときいたときでございます。そんなはずはない。じぶんはたしかに本物を師匠のところへかえしておいたのにと、とつおいつ考えているうちに、ハッと思いついたのが能阿のこと。ひょっとすると、能阿は二つ偽の面をこしらえて、本物はじぶんのほうへとっておいたのではあるまいか……そう考えたものですから、今夜、ここへ忍んできたのでございますが、能阿はすでに首をくくって……ごらんくださいまし。そこに能阿の書き置きがございます。能阿ははたして本物を手元におき、それを手本に面を打ったが、いくら打っても丹後の面に及ばぬところから、しだいにもの狂わしゅうなり、とうとう首をくくって死んだらしゅうございます」  小四郎の言葉にいつわりはなかった。能阿の書き置きを読んでみると、丹後におよばぬおのれの技術のふがいなさに、しだいに心狂わしくなっていく名人気質がなまなましく描きだされているのである。佐七はその書き置きを読みおわると、 「いや、これでなにもかもわかりました。観世のお師匠さま、お面がぶじにもどっておめでとうございます」 「いや、かたじけない」 「こうして万事氷解したからには、おいらはもう用のないからだ、辰、豆六、そろそろ行こうぜ」 「あれ、親分さん」  と、おどろいたのは小四郎で、 「わたしを縛って……どうしてわたしをお縛りくださらないのでございます」 「おまえさんを縛る? 罪もないひとをどうして縛るのだえ。ああ、新八さんのことか。なあに、あれは酒に酔っ払って、どこかのならずものとけんかをしたあげく、とうとうくびり殺されたのよ。そうそう、おまえさん、なにかさっき寝言みたいなことをいっていたが、おいらはうっかりしてききもらした。辰、豆六、おまえたちはどうだね」 「親分、あっしはちかごろのぼせ性で、すっかり耳が遠くなりました」 「そやそや、わてもちかごろ血の道で、とんとなにもきこえまへんぜ。そんなら、親分、いきまほか」 「親分さん」  手をあわせる鉄之丞、小四郎の師弟をのこして、三人がおもてへでると、空には上弦の月がうつくしく……どうやら、あすの重陽の節句は上天気らしい。  その後、お鶴雛丸の恨みもとけて、雛丸はあっぱれ能役者になったという。     ろくろ首の女  刀屋の強盗   ——情けがあだの三百両のゆすりかたり 「夜分、とつぜん参上いたしまして、まことに申し訳ございませんが、わたくしは芝神明の門前仲町で刀屋を渡世といたしおりまする伊丹屋《いたみや》ともうす店の、番頭をつとめおりまする利助ともうすものでございます。また、ここにおいでになりますのは、あるじ重兵衛《じゅうべえ》のご寵愛《ちょうあい》のかたで、お亀《かめ》さまとおっしゃいます。お亀さま、あなたさまからも、親分さんにごあいさつをどうぞ」 「はい」  と、さすがに女は鼻白んだかっこうで、ぽおっと瞼際《けんさい》に朱をはしらせながら、それでも殊勝に手をついて、 「わたくしがいま利助どんのおっしゃったお亀でございます。ことしの秋のはじめごろから、伊丹屋のだんなさんのお世話になっておりまする」  それはお十夜もすぎた十月二十日の晩のこと。  お十夜というのは十月五日から十日間にわたって、浄土宗の寺々でいとなむ法要のことである。  江戸時代の十月といえば、現代の十一月に相当するから、お十夜をすぎると、江戸の町々はめっきり冷え込み、目にみえて日が短くなる季節だから、暮れの六つ半(七時)ともなればもうまっくら。  神田お玉が池の佐七の住まいでは、人形佐七にふたりの子分、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六と、水入らずの三人が、いましも、女房お粂のお給仕で、晩飯をすませて、のんびり爪楊枝《つまようじ》をつかっているところへ、やってきたのがこのふたりづれである。  お店の番頭とそのあるじのおめかけとがいっしょにやってくるというのは、ちょっととりあわせがかわっているので、佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。 「いや、これはごていねいなごあいさつで痛みいります。あっしが佐七で、ここにひかえておりますのがあっしの身内で辰と豆六」 「はあ、お名前はかねがねうかがっております。こんごとも、なにぶんよろしくお願い申し上げまする」 「して、ご用とおっしゃいますのは……?」 「はあ、それはかようでございます」  と、切り出したものの、利助はちょっとためらいがちに、ひざのうえでしきりに両手をもんでいる。番頭といっても、利助はまだやっと二十四、五というところだろう。  色白のちょっとした好男子で、いかにも機転のききそうな男だが、このとしごろで番頭がつとまるくらいだから、伊丹屋という刀屋も、それほどたいした店ではないのであろう。  めかけのお亀というのも、これでめかけがつとまるのかとおもわれるようなきりょうである。  としは十八か十九だろう。なるほど、ぽっちゃりとした肉付きが色好みな男にとって魅力かもしれないが、おせじにも美人とはいいかねる。  色の白いのがとりえといえばいえるが、まるぽちゃの顔のまんなかに、鼻がちんまり鎮座していて、まあ、あいきょうのある顔とはいえるかもしれない。  それに、なんといっても、番茶も出花のとしごろだから、きりょうは二のつぎとして、だんなにとってどこかよいところがあるのだろう。  だが、それにしても、変わっているのはその服装である。おかこいものというよりも、まるで娘だ。黄八丈の振りそでに娘島田。しかも、ごていねいに、まっかな花かんざしまでさしている。  これがだんなのこのみとすると、伊丹屋重兵衛という男、よっぽどこってりとしたこのみにちがいないと、人形佐七はいうにおよばず、辰と豆六も心のなかであきれている。  さすがにお粂は気をきかして、そっとその場をはずしていた。 「はあ、それで、おはなしとおっしゃるのは……?」  三人の視線に射すくめられて、お亀が火がついたようにあかくなり、消え入りそうに肩をすくめているのに気がつくと、佐七は悪いことをしたといわぬばかりに、利助のほうへ視線をもどして、はなしのあとをうながした。 「いや、どうもこれは失礼申し上げました」  と、利助は小鬢《こびん》をかきながら、ひとひざまえへゆすり出すようにして、 「親分さんはひょっとするとおぼえておいでではございませんか。いまから四年まえの年の暮れでございますけれど、わたしどものほうへ、二人組の強盗が押し入りましたのを……」 「あっ!」  とさけんで、佐七はぽんとひざをたたくと、 「そうそう、刀を持って押し入ったかどうかということが問題になった……」 「はあ、それでございます。わたくしはそのとき二階に寝ていたものでございますから、強盗がはじめから、刀をもって押し入ったのか、それとも押し入ってからお店の刀でおどかしたのか、どちらともわかりかねるのでございますが、だんながお店の刀だといいはりなさいましたので、二人組の強盗も罪がかるくなったのでございます」  江戸時代では、強盗が押し入ったとき、はじめから凶器を持参しているのと、押し入ってからそこにあった凶器を利用するのとでは、うんと罪の軽重がちがうのである。  このことは、まえにも佐七は『神隠しにあった女』の一件で取りあつかったことがある。  ところが、いまから四年まえの年の暮れに、伊丹屋へ押し入った仲次郎に権之助《ごんのすけ》というまだ駆け出しの愚連隊は、重兵衛夫婦のまくらもとへ、抜き身をつきつけて金品をゆすったが、重兵衛の度胸がよかったのと、ちょうどそこへまわってきた町まわりのおかげで、まんまとその場でとっつかまってしまった。ところが、そこで問題になったのが、そのときふたりがさしていた刀が、押し入るまえから身におびていたものか、それとも、押し入ってから店にあった刀を、万一の用意にと、帯にさしたものかということである。  前者ならばむろん重罪で、こととしだいによっては、死罪をもまぬがれなかった。  ところが、そのとき重兵衛が、ふたりのさしていた刀は、たしかに店のものにちがいないといいはったので、ふたりは死一等を減じられて、島送りでことがすんだのである。 「そうそう、そのとき、あっしも感心したんです。伊丹屋のだんなはよくできたおかただと……ありゃやっぱり仲次郎と権之助が押し入るまえからさしていた刀でございましょう」 「さあ、それは……わたくしにはなんとも申し上げかねます」 「あっはっは、そりゃそうだな。まさかおまえさんも、だんながおかみを欺いたとはいえねえだろうからな。だけど、だんなのお情けがなかったら、まだ年若いあのふたり、どうなっていたかわからねえからね」 「はい、しかし、もしそうだったとしたら、だんなのお情けがあだになったのでございます」 「情けがあだになったとは……?」 「三宅島《みやけじま》へ送られたふたりのうち、仲次郎のほうは島で死んだそうですが、権之助がさきごろかえってまいりまして、あのときの刀をかえせといってきたんです」 「刀をかえせ……?」  と、佐七をはじめ辰も豆六も目を丸くして、 「それじゃ、みずから、持凶器強盗と白状するのもおなじじゃないか」 「はい、しかし、だんなのほうでもおかみをあざむいた罪はまぬがれぬとすごむのでございます」 「ふうむ、それをいいがかりにして、だんなをゆすろうというのかえ」 「いえ、そればかりじゃございません。あのとき取りあげられた刀は貞宗《さだむね》だから、捨て売りにしても三百両はする。刀がないなら三百両よこせと、このあいだからたびたびお店へまいりますし、また、このお亀さんのほうへも押しかけてまいるそうで……ねえ、お亀さん」 「はあ、あの……」  お亀はちょっと目をあげて佐七を見たが、すぐまたまぶしそうにまつげをふせると、 「権之助さんというひとが、ちょくちょくまいりまして、だんなとひそひそ話をしております。わたしはそんな悪いひととは、こんやおかみさんに呼ばれてお話をうかがうまで、ちっとも存じませんでしたけれど……」  四十二の厄《やく》   ——だんなとお亀さんが裸で殺されて 「親分、伊丹屋のだんなも、悪いやつにひっかかったもんですねえ」 「ほんまにいな。うっかりこれを訴えてでると、まえにお白州で申し上げたことがまっかないつわりということになりよる。情けがあだとは、ほんまにこのことだんなあ」  五つ(八時)ごろ、利助が駕籠《かご》をよんでほしいというので、お粂が二丁の駕籠を呼んでくると、利助はくれぐれもよろしくと、この一件をたのみこんで、お亀とともにかえっていったが、そのあとで辰と豆六は、しきりに伊丹屋重兵衛に同情していた。 「なあに、あの一件は、たしか南のかかりだったから、あしたお奉行所へ出向いていって、当時のお調べ書きを調べてみればすぐにわかることだ。伊丹屋へ下げ渡された刀のなかに、貞宗があったかどうかということはな。しかし、辰、豆六」  と、佐七は意味ありげに、ふたりの顔をふりかえって、 「あのお亀というおめかけ、ありゃ前身は何者だろうねえ」 「いや、それだんねん、親分、わてどっかであの女に会うたことがあるような気がしまんねんけど、もひとつ、はっきり思い出せまへんねん」 「あら、豆さん。おまえさん、あのひと知ってるの」  と、お粂もいつか席へもどっていた。 「いいえ、あねさん。こいつ、またお株をはじめやアがったんです。こいつときたら、女さえみれば、どこかで会うたような気がするの、見たことがあるような気がするのと……よしゃアがれ」 「兄いはそういうけど、たしかにどこかで……」 「いいよ、いいよ、そんならとっくりと思い出しておくんなさいまし。だけど、親分、ありゃ根っからの素っ堅気じゃありませんぜ。右手の指に、三味線の撥《ばち》ダコがありましたぜ」 「あら、辰つぁんも気がついてたの。ありゃたしかに撥ダコね」 「あっはっは、お粂、辰、さすがにおめえたちは目がはやいな。だけど、そのほかにまだ気がついたことはねえか」 「さあね、あっしの気のついたのは、それだけですが……」 「おまえさん、まだほかにあって?」 「お亀の指の、ヒビあかぎれには気がつかなかったか」 「あっ」 「あら、まあ」 「そこがおかしいじゃないか。あれだけのふうをさせているところをみると、伊丹屋のだんなは、よっぽどあの娘がかわいいんだろう。それにもかかわらず、あのヒビあかぎれ」 「あっ、なあるほど。そうすると、伊丹屋のだんなというのはケチンボで、めかけはかこっているものの、女中もばあやもつかってねえということですかね」 「あっはっは、そういうことかもしれねえ。豆六、おまえはなにをそんなに考えこんでいるんだ」 「いやな、わては、たしかにいまのあの女、どこかで会うたことがあるような気が……はて、いったいどこで会うたんやろ」 「ほっほっほ、豆さん、とっくり考えて、よウく思い出しておくれな。それがこんどの一件をとくかぎになるかもしれないよ」  お粂はちかづく正月の亭主《ていしゅ》の晴れ着の手入れかなんかしながら、からかい顔にいえば、辰がそばからせせら笑って、 「よせよせ、へたな考え休むに似たりだ。それより、そろそろふろへいって、寝るとしようじゃないか」  と、その晩はそれですんだが、さてその翌朝の五つ半(九時)ごろ、朝飯をすませた佐七が縁側へ出て、ひなたぼっこをたのしみながら、盆栽かなんかいじっていると、表にあたって子どもの声で、 「ごめんなさい、ごめんなさい。お玉が池の親分さんのおうちはこちらでございますか」  と、なにやら息をはずませているようすである。 「おい、お粂、だれか子どものお客さんだぜ。おまえひとつ出てみてくれ」 「あいよ」  と、台所で洗いものをしていたお粂は、そのまま上がりがまちへ出ていったが、しばらくするとひきかえしてきて、 「おまえさん、ゆうべきた芝神明の伊丹屋さんの小僧さんで、長松どんというのが、おまえさんに会いたいって」 「なに、伊丹屋の小僧さんが……」 「ええ、なんだか血相がかわっているようですよ」 「よし、すぐここへ呼べ」  長松は居間へはいってくるなり、 「親分、たいへんです、たいへんです。だんなが……だんなが……」 「長松どん、だんながどうしたというんだ」 「殺されたんです。お亀さんもいっしょに……」  そこまでいったかとおもうと、長松はわっとその場に泣き伏した。 「えっ!」  と、佐七は弾かれたように腰をうかした。  お粂もびっくりしたように、長松のすがたを見まもっている。 「長松どん、そ、そりゃほんとうか」 「はい。それで、おかみさんが、すぐ親分を呼んでこいって……」  長松はまだ八つか九つ、おそらく十までいっていなかったろうが、それが芝からここまで宙をとんでしらせにきたのだ。 「おい、お粂、辰と豆六をたたきおこせ」 「あいよ」 「いいえ、親分、あねさん、その辰と豆六なら、いまそちらへおりていくところです」  おそらく、寝床のなかで階下の話に耳をすましていたのであろう。どすんばたんと布団をあげる音をさせていたが、やがて、どたばた二階からおりてくると、 「親分、いま顔を洗って、おまんまをかきこみますから、そのあいだに長松どんに話をきいておいておくんなさい」  長松はひとしきり泣きじゃくっていたが、やがてはなをすすりながら、きれぎれに、 「ゆうべまた、変な男がきたんです。島がえりの権之助という男がきたんです」 「ああ、お店へきたんだね。そして、それは何刻《なんどき》ごろだ」 「いえ、あの、長松は使いにいっていたのでしらないんです。四つ(十時)ごろ使いからかえってきたら、権之助がゆすりにきたと、おかみさんが青くなってふるえていたんです」 「ふむ、ふむ。すると、だんなはるすだったのかえ」 「はい、だんなは伊皿子《いさらご》のほうでした」 「伊皿子というのは、お亀さんのところだな」 「はい。それで、おかみさんがあんまりこわがるもんだから、長松がだんなを呼びにいこうかといったんですけれど、おかみさんが伊皿子さんに遠慮して……それで、けさになって長松がだんなを迎えにいったら、だんなも伊皿子さんも、お寝間のなかで血だらけになって……」  長松はそこまでかたると、その情景を思い出したのか、はげしく身ぶるいをすると、またしくしくと泣きだした。 「それで、利助どんはどうした」 「番頭さんはゆんべかえらなかったんです」 「かえらなかった?」 「はい、いつもは中引けすぎ……いえ、あの、真夜中ごろにかえってきて戸をたたくんですが、ゆうべはどういうものか、かえってこなかったんです。それで、さっきおかみさんが、品川の伊勢屋《いせや》へ使いをやったんです」  ああ、そうなのか……と佐七は心のなかでうなずきながら、 「それで、おまえのうちじゃ、だんなと、おかみさんと、番頭さんと、おまえのほかに、だれがいるんだ」 「はい、お紋というとしとったばあやがいるきりですが、お紋さん、だんながころされたときいて、腰をぬかしてしまって……」 「じゃ、お子さんはいらっしゃらないんだな」 「お仙《せん》ちゃんてお嬢さんがひとりあったんですが、それが去年の夏に亡くなったんです。それで、だんながおめかけをもったんです。ぜひとも子どもがほしいって」  こまっちゃくれた口のききように、佐七はおもわず微笑をもよおしながら、 「それで、だんなはおいくつだえ」 「四十二の厄《やく》なんです。ことしは厄だから、気をつけなきゃいけないっていってたら、やっぱりこんなことになってしまって……」 「親分、お待ちどおさま」  そこへ早飯をかきこんだ辰と豆六が、口のはたをぬぐいながら顔をのぞけた。  もうひとつの箱まくら   ——まさか宵《よい》のうちからこんなことは  芝伊皿子《しばいさらご》にあるお亀の妾宅《しょうたく》は、お高札場のほどちかく、うらは長安寺の墓地になっており、かたがわは竹やぶ、もういっぽうは火よけ地になっているので、伊皿子の町のなかでも一軒ポツンと隔離されており、人目をさけてめかけをかこっておくにはかっこうの場所だが、そのかわり凶悪犯罪が演じられても、容易に隣近所へしれないだろうという危険性ももっていた。  数奇屋づくりのその妾宅のおくの四畳半をのぞいたせつな、人形佐七はいうにおよばず、辰と豆六も、おもわずあっと顔をしかめた。  なまめかしく敷きみだれた寝床のうえに、虚空をつかんで倒れている男も女も、一糸まとわぬ赤裸を、なまなましくそこにさらけ出しているのである。しかも、目をちかづけて子細に点検するまでもなく、凶行が演じられたとき、男と女がなにをしていたか、一目|瞭然《りょうぜん》なのである。  おそらく、お亀はめかけの役目をはたしおわって、恍惚《こうこつ》として男の腕にだかれているところを、この凶暴な悪魔の凶手におそわれたのだろう。  よこにたおれた朱塗りの箱まくらから、お亀はがっくり頭を落として、髷《まげ》がぐらぐらにくずれているのは、男の愛撫《あいぶ》のはげしさを物語っているのであろうか。  彼女はあおむけに股《また》をひろげて、おしげもなく、ぽっちゃりとした肉付きの膚をさらけだしているのだが、そこには後始末をするひまもなかったらしく、男の発射した鉄砲水が、まだ生がわきで、生ぐさいにおいを放っている。  女ののどのまわりには、なまなましい細ひものあとがのこっていた。  そのお亀のかたわらに、これまた脂ぎった全裸のすがたをさらしものにしているのが重兵衛だろう。  四十二といえば男盛り、額は少しぬけあがっているが、ゆたかな下っ腹の肉付きといい、色白の膚のいろつやといい、いかにもこってりとした好色家をおもわせる。  この重兵衛もあおむけにたおれていて、その首のまわりには、お亀とおなじように、なまなましい細ひものあとがのこっているが、ごていねいにその胸には鋭い刃物でえぐられたあとがあり、まくらもとには血にそまった出刃包丁が投げだしてある。  そのまくらもとに立てまわしてある枕屏風《まくらびょうぶ》には、極彩色の男女の秘戯図がはりあわせてあり、この重兵衛という男、よっぽどえげつない好色趣味をもっていたとみえる。  佐七はおもわず音をたてて息をうちへすいこむと、気がついたようにそばにたっている町役人をふりかえった。 「この座敷、なんにも手がつけてないんでしょうねえ」 「はい、見つけたときのまんまにしてございます。いま、おまえさんがたがはいっておいでなすったとなり座敷の雨戸が一枚あいていたので、丁稚《でっち》の長松がなにげなくはいってきて、これをみつけたのでございますね。それで、うちへかえって伊丹屋のおかみさんにしらせる。おかみさんが駆けつけてきて、これをみつけて、わたしどもにとどけがあったというわけです」  町役人の話を聞きながら、佐七は辰や豆六にてつだわせて、重兵衛の上半身をそっとおこして、首のまわりのひものあとをしらべてみた。 「親分、こりゃうしろから絞められたんですぜ。ほら、ひものあとがそうなってます」 「そやそや、お亀を抱いてうつぶせに、うっとりしているところを、うしろからひもをかけられ、ひきずり起こされよったんだっせ」 「だけど、首をしめておいて、なぜまたごていねいに出刃包丁でえぐりやがったのかな」 「そりゃ兄い、しれてまんがな。うっかり息を吹きかえしたらえらいこっちゃで、とどめを刺すつもりでえぐりよったんや」  それにはんして、お亀はどうやらまえからしめられたらしい。 「それにしても、だんなが絞められているあいだ、お亀はどうしていたんだろう」 「そりゃ、逃げるにも逃げられなかったんでしょう。だんながうえにのっかってちゃ」 「それにしても、悲鳴ぐらいあげそうなもんだが……もし、だんな、だれかご近所のひとで、さけび声のようなものを聞いたひとはねえんで」 「いや、それをわたしもさっきから調べているんだが、どうもないらしいんです。もっとも、この家は隣近所からちょっとかけはなれていますからね」 「それにしても、これは何刻《なんどき》ごろの出来事でしょうな」 「さあ……」  と、町役人は顔をしかめて、 「こうして、お楽しみをおわったところをやられているんだから、そうとう夜も更けてからの出来事だろう。なんぼかわいいめかけでも、宵《よい》の口からこんなことは……」 「親分、お亀が駕籠《かご》でうちを出たのは五つ(八時)ごろのことでしたから、こっちへついたのが五つ半(九時)まえとして、それからの出来事でしょうから、おおかた、四つ(十時)ごろのことじゃないでしょうかねえ」  佐七は辰のことばにうなずきながら、なにげなく行灯《あんどん》をひらいて、油つぼを調べたが、油つぼには油がいっぱい差してある。  佐七は、おやというふうにまゆをひそめたが、すぐさりげなく行灯の戸をしめた。 「辰、豆六、なにかそこらに証拠はないか調べてみろ」 「おっと、がってんだ」  座敷のすみの衣桁《いこう》には、男物と女物の衣類がかけてあるが、女物はゆうべお亀がお玉が池へきてきた黄八丈である。  その衣桁のしたに乱れ箱がおいてあり、乱れ箱のなかにふたりの足袋や重兵衛の紙入れ、鼻紙袋、折りたたんだ手ぬぐいなどがはいっていた。  男も女も寝床へはいるときは、浴衣と長じゅばんを身にまとうていたのである。そして、寝床のなかでなにもかもかなぐりすてたらしいことは、それらのものがふたつの死体のしたに散乱していることでもうなずける。 「だんな」  と、佐七は撥《ばち》ダコのできたお亀の手の荒れように目をやって、 「この家には、お亀さんのほかにだれもいねえんですか」 「はい、おめかけのひとり住まいでした」 「しかし、それはおかしいですね。かわいいめかけをかこっておくのに、奉公人をつけておかないというのは」 「そりゃまあ、伊丹屋さんになにかお考えがあったんでしょう。なまじ奉公人がいちゃ、お楽しみのじゃまになったんじゃありませんか。このとおり、あんまり広い家じゃありませんからね」  町役人のいうとおり、敷地はそうとう広いのだが、建物はこの四畳半のほかに六畳に三畳、それにもうひとつ四畳半の納戸があるだけ。 「いったい、このお亀さんというのは、前身はなんだったんです」 「さあ、よくわかりません。てんで近所づきあいというのをしなかったもんですからね」 「ああ、そう」  佐七はもういちど座敷のなかを見まわした。  この四畳半には、茶がかった半間の床の間があり、そのとなりが押し入れになっている。なにげなくその押し入れをひらいてみると、そこにもうひとかさね夜具がつんであり、その夜具のうえに、朱塗りの箱まくらがもうひとつ。  佐七はおやと小首をかしげた。  ろくろ首の見世物   ——たぶん旅先でひと晩戯れて 「ああ、利助どん、おまえさん、ゆうべは品川泊まりだったそうですね」  四畳半をしらべおわって、となりの六畳へ出てくると、そこに利助があおい顔をして座っていた。 「面目しだいもございません。だんなからもおかみさんからもお許しが出ていたとはいうものの、よりによってこんな晩に遊びに出かけまして……」 「おまえさん、あれからいちどお店へおかえりなすったんで」 「いえ、御高札場のところでお亀さまとわかれますと、そのまままっすぐ品川まで駕籠《かご》を飛ばしましたので……」 「さっき長どんに聞いたんだが、いつもは中引けすぎにはかえるおまえさんが、きょうはまたどうして朝まで……?」  佐七のするどい視線をあびて、利助はかめの子のように首をすくめて、 「いえ、わたしも中引けすぎにはかえるつもりでございましたが、ゆうべの寒さで駕籠で冷えこんだとみえて、下っ腹がさしこんでまいりまして、どうにもあがきがとれません。それで、つい朝まで……」 「ああ、そう。品川は伊勢屋だそうだが、だれかなじみのあいかたでもあるのかえ」 「はい、あの……」  と、利助は顔をあからめながら、 「お駒《こま》というのが、一昨年来の買いなじみで……」  と、恐縮したように口ごもった。 「ときに、権之助というのがゆうべまたお店のほうへきたそうだが……」 「はい、さっきおかみさんにききました。それでございますから、いっそう家をあけたのが申し訳なくって……」 「だんなはゆうべ、何刻《なんどき》ごろに家を出なすったんだえ」 「さあ……わたくしがお亀さまとごいっしょにお店を出るとき、だんなはもうおうちにおいでではございませんでした。おおかた、お亀さまといれちがいになられたのでございましょう」 「お亀さんは、おかみさんがお呼びなすったんだね」 「はい、こちらのほうへも、ちょくちょく権之助が顔を出すとおききになって、ようすをたしかめるためでございましょう」 「おかみさんは、いま、どちらに……?」 「はい、ご本宅のほうでだんなのお亡骸《なきがら》をお迎えなさるご用意をしていらっしゃいます」 「ああ、そう。それじゃ、あっしどももお伺いいたしますからって、おまえさん、ひと足さきにかえって、申し上げておいてください」 「はい、承知いたしました」 利助の立ち去るのを見送って、佐七は辰の耳にささやいた。 「辰、てめえ品川の伊勢屋へいって、利助のいうのがほんとかどうかたしかめてくれ。夜中にこっそり抜け出したりしやアしなかったかってな」 「おっと、がってんです」  きんちゃくの辰がとび出していったあと、佐七は六畳の座敷にある行灯《あんどん》の油つぼをしらべてみたが、これまた、油はたっぷりと差してある。 「親分、あっちの座敷の行灯も、油がいっぱい差しておましたが……」  豆六も首をかしげている。 「どうもおかしい。重兵衛はまっくらがりのなかでお亀のかえりを待っていたのか……まあいいや。豆六、家のまわりをしらべてみよう」  家のまわりや戸締りをしらべてみたが、べつにこれといってかわったところも見当たらない。 「親分、こら権之助のやつ、お亀が出ていったあと、あらかじめ家のなかにかくれていよって、重兵衛とお亀がお楽しみのあと、うっとりしてるとこをしめころし、それから雨戸をひらいて逃げ出しよったんでっしゃろな」 「戸締まりにどこもこじあけたあとがないところをみると、そういうことになるな」  それからまもなく、あとは町役人にまかせておいて、佐七は豆六をひきつれて、芝神明門前仲町の伊丹屋のほうへ出向いていった。  ちかみちをしようと、神明の境内を抜けていくと、空っ風のふく境内には、葭簾《よしず》張りの芝居小屋だの、見世物小屋が、おもちゃ箱をひっくりかえしたように並んでいる。  そのなかに、ろくろ首の娘の見世物があり、看板に、肩衣《かたぎぬ》つけて三味線をひいている娘の首が、三尺あまり抜けだして、歌をうたっているところが描いてある。  豆六がぼんやりその看板をみていると、 「バカ野郎、なにを間抜けづらしてみていやアがるんだ。さっさとこねえか」  佐七にしかりつけられて、 「へえ」  と、ぼんやり答えながら、豆六は首をふりふり、やっとふらふら歩き出した。  門前仲町の伊丹屋は大戸をおろして、ひっそりとしずまりかえっているが、その表には野次馬がおおぜいとりまいていた。  佐七は案内を請うまえに、いちおう家のまわりをみておいた。たいしておおきな構えではないが、裏には一戸前の土蔵もあり、まあ、ひととおりにはやっているらしく思われた。  おかみはお重《しげ》といって、四十前後、まゆをそったあとがいかにも疳性《かんしょう》らしく、目に涙のあともないのは、泣くにも泣けぬ気持ちなのか。 「こんなことになるとしったら、もっとはやくお上へ訴えて出るのでございましたが、なんといっても先年いつわりを申し上げたという弱みがございますもんですから……」  お重はそこで、そっとそで口で目がしらをおさえた。 「その権之助というやつは、ゆうべもここへきたそうですねえ」 「はい、たぶんあれから伊皿子のほうへまわったのでございましょう。ほんとに、情けがあだとはこのことでございます」 「それじゃ、四年まえのあの一件は、やっぱり仲次郎と権之助が、刀をもって押し入ったのでございますね」 「はい、それをそのとおりに申し上げたら、ふたりとも死罪にでもなりはしないか、それではまだ若い身空でふびんだと、なまじだんなが情けをかけたのがいけなかったんです」 「そのときの刀は、こちらへ下げ渡されたんでしょうねえ」 「はい、ふたふりとも……でも、どちらもなまくらでしたから、だんながどうしまつなすったのか、そこまではおぼえておりません。それを、貞宗だの、捨て売りにしても三百両だのといいがかりをつけ、あまつさえだんなをころすとは……」  と、お重はぴりぴりと、あおいまゆねをふるわせて、いかにもくやしそうに歯ぎしりをする。 「その刀のことなら、お奉行所にお調べ書きがのこっておりましょう。それをしらべりゃ、貞宗かなまくらかわかることです」 「はい、それを調べていただくつもりで、ゆうべお亀さんと利助どんに、親分さんのところへいってもらったんですが、いまとなっては手おくれでございます」 「そのあとへ権之助がやってきたんですね」 「利助どんとお亀さんが出掛けていったちょうどそのあとへ……あいにく、長松も使いにでたあとで、うちにはお紋という耳のとおいばあやとわたしのふたりきり、ほんとに怖うございました」 「だんなは宵《よい》の口から伊皿子のほうへ……?」 「はい、お亀さんといれちがいになったようでございます」 「おかみさんはそのことを、権之助におっしゃったので?」 「あんなこと、いわなきゃアよかったんですが、あんまり怖いものですから、つい……」  お重はここではじめて身をもんで、身も世もあらず泣きむせんだ。  佐七はあいてが泣きやむのを待って、 「ときに、あのお亀さんというひとは、もとなにをしていたひとなんですか。右手に撥《ばち》ダコがあるようでしたが……」 「それがよくわかりません。と、こう申しますとうろんのようでございますが、この夏、だんなは甲州の身延山《みのぶさん》へおまいりなさいましたが、その旅先からつれておもどりになりまして、あそこへかこったのでございます。はじめはわたしどもにかくしておいでなさいましたが、すぐしれてしまいまして……でも、少し抜けているのではないかと思われるくらい気性の素直な娘でございますから、わたしも大目に見ておりました。たぶん、旅芸人でもしていたのを、だんながひと晩戯れてごらんになったらお気に召したので、連れておかえりになったのでございましょう。でも、ひょんなことからだんなの道連れにされてしまって、ふびんなものでございます」  と、お重はほろりと、そで口で目をおさえた。  権之助の行方   ——百両の金をうばって高飛びしたか  その日、佐七は南町奉行所へよって、四年まえの一件調書を調べてみたが、伊丹屋へ下げわたされた刀は、ふたふりともまぎれもなくなまくらで、貞宗などとは大笑いである。  きんちゃくの辰は、夕方品川からかえってきたが、その報告によると、利助のいうことはすべて真実だったらしい。  かれは五つ半(九時)すこしまえに伊勢屋へ登楼しているが、それから朝になって伊丹屋から使いがくるまで、一歩も伊勢屋をはなれたことはないと、これはあいかたのお駒のみならず、やりてばばあのおさんというのも証言していた。  なにしろ、真夜中ごろにさしこみがきて、家中をさわがせたので、いっそうアリバイがはっきりしている。  また、利助を品川まで送っていったお玉が池の駕籠屋《かごや》の言によると、利助は佐七の家を出てからまっすぐに品川まで乗りつけて、むこうへついたのは五つ半(九時)少しまえだったといっている。  駕籠屋は利助がおんなたちに迎えられて登楼するのを見とどけてからひきかえしているのである。  それに反して、お亀を送っていった駕籠は、妾宅《しょうたく》までお亀を送っていない。お亀は伊皿子の入り口で駕籠をおりると、それからさきは歩いていったということである。  それにしても、権之助はいったいどうしたのか。  ことしの秋、権之助がご赦免になって島からかえってきたことは事実である。いらいかれは昔なじみの家を泊まり歩いていたらしいが、島もどりとあっては、どこへいってもいい顔はされず、転々として居どころをかえていたらしい。  その権之助の姿を、伊丹屋や妾宅の付近で見かけたものもそうとうあった。尾羽打ち枯らした権之助のすがたは、だれの目にも異様にうつったのである。  重兵衛の葬式は、その月の二十二日に伊丹屋を出たが、その翌日の二十三日になって、伊丹屋から町役人に訴えがあった。  二十日の日、重兵衛がおとくいさきから受け取ってきた刀代の百両がどこにも見当たらないところをみると、重兵衛はそれをもったまま妾宅《しょうたく》へおもむいたのではないかというのである。  むろん、妾宅はあの一件ののちくまなく捜索されているが、百両の金など、どこからも出てこなかった。とすると、てっきり権之助が奪って逃げたものと思われる。  それにしても、伊丹屋ではなぜそのことを二十三日まで気づかなかったかというと、重兵衛がその日、そういう大金を受け取ってきたとは気がつかず、お葬式の翌日、あらためて利助が金の催促にあがり、そこで重兵衛の受取をみせられて、びっくりぎょうてんしたというわけだった。  権之助が百両の金をうばって逃げたとすると、高飛びをすることも十分考えられる。  そこで、その筋では人相書きをつくって、江戸の町々はいうにおよばず、街道筋へもくばったが、二十五日にいたるも、杳《よう》として消息はつかめない。  佐七はきょうもきんちゃくの辰をひきつれて、芝神明の門前仲町、伊丹屋の店をたずねてみた。  伊丹屋はまだ初七日がすんでいないので、大戸はおろしたきりである。  佐七が伊丹屋をおとずれたのは、お亀という女の前身をなんとかしてしりたいと思ったのだが、ほんとにお重はしらないのか、しっていてもかくしているのか、答えはこのまえとどうようだった。  伊丹屋の重兵衛が身延詣《みのぶもう》でのかえるさにお亀を拾ってきたのであるということは、近所のうわさをきいてもほんとうらしいが、げんざい亭主のせわをしている女の氏素性を女房がしらぬというのは、佐七にはなんとなくうなずけなかった。 「親分、あのおかみさん、なにかかくしているんですぜ。きっと、お亀の素性がしれると外聞にかかわることがあるんじゃないんですか」 「そういうことかもしれねえな」 「だけど、親分、お亀の素性はこの一件にべつにかかわりはねえはずだが……下手人は権之助としれてるんですからね」 「ふむ、だけど、しっとくにこしたことはねえからな」 「そりゃまあそうですが……」  と、辰が生返事をしているとき、 「おや」  とつぶやいて、佐七はふっと足をとめた。そこは伊丹屋の勝手口の外で、佐七の目は、そのどぶ板のしたにくぎづけにされている。 「親分、ど、どうかしましたか」 「辰、あのどぶ板のしたに、なにやら赤いものが落ちている。花かんざしじゃねえかと思うんだが、拾ってみろ。おおいそぎだ。ひとの目につかねえうちに……」 「へえ……」  辰はすばやくあたりを見まわすと、身をかがめて、どぶ板の下から赤いものを拾いあげたが、はたしてそれは花かんざしであった。 「親分、こりゃ二十日の晩、お亀が髪にさしていたかんざしじゃ……」 「しっ、四の五のいわずに、はやくかくせ」  辰があわててその花かんざしをふところのなかへしまいこもうとしているとき、すぐ塀《へい》のなかにある土蔵の窓から声がかかった。 「親分さん、そこになにかございましたか」  見ると、土蔵の窓からこちらをみているのは番頭の利助である。 「ああ、利助どん、そこにいなすったか。なあに、草履の鼻緒がきれたので、辰にすげてもらっていましたのさ。さ、辰、いこう」  それからふたりは、れいによって近道しようと、神明の境内へ踏みこんだが、とつぜん、辰が、 「ありゃ、あの野郎!」  とさけんだので、さすがの佐七もおどろいて、 「辰、どうした。なにかあったか」 「いえさ、親分、あそこにいるのは豆六じゃありませんか。あの野郎、朝からどこへいったのかと思っていたら、あんな見世物小屋のなかから出てきやアがった。おい、豆六、豆六」  声をかけられて、豆六もふたりに気づくと、うれしそうに顔中を口にしてわらいながら、こちらのほうへちかづいてきた。 「豆六、いい若いもんが、なにを見ていたんだ」 「いやな、ろくろ首の娘の見世もんを見てたんやがな」 「バカ野郎、なんだってそんなくだらねえもんを」 「まあ、そういいなはんな。親分、わてやっとお亀のことを思いだしました。あら昔」  と、豆六はちょっと声をおとして、 「浅草の奥山で、ろくろ首の見世もんに出てた娘だっせ。そのじぶん、まだ十五、六やったんで、わても見忘れてましたんやけんど……」 「ろくろ首の娘……」  佐七はとつぜん、なにかにぶんなぐられたかのように、その場に棒立ちになってしまった。  つづらの中   ——ここにもうひとりのお亀が 「親分、いったい、ここでなにを待っているんです」  時刻はもうかれこれ深夜の八つ(二時)。ぞくにいう草木もねむる丑満時《うしみつどき》である。  そこは、伊丹屋の表と同時に勝手口をひとめで見渡せる路地口だが、そこにある大きな天水桶《てんすいおけ》のかげに、さっきからやもりのようにへばりついているのは、人形佐七に辰と豆六。 「しっ、口をきいちゃいけねえ」  佐七はひくい声で制しながら、その目は伊丹屋の勝手口にくぎづけにされている。  このへんは増上寺にちかいので、ちかくに陰間茶屋がおおく、ついさっきまで、女のようによそおった変性男子が、駕籠《かご》にのっていききをしていたが、深夜の八つ(二時)ともなれば、それぞれの巣へおちついたらしく、しいんとねしずまった町のかなたで、犬の遠ぼえの音がいんきである。  お十夜もすぎると、朝な朝なの霜柱、深夜ともなれば、いてついた大地からはいあがる冷気が、骨の髄までしみとおりそうである。 「豆六、よさねえか、その貧乏ゆすりを。なんべんいったらわかるんだえ」 「だって、親分、こう寒うてはやりきれまへんがな」 「もう少しの辛抱だ。寒くてもがまんしろ」 「だけど、親分、ちかごろ毎晩ここに張っていて、いったいなにを……」  といいかけて、辰ははっと口をつぐんだ。  伊丹屋の表のくぐりが開く音がしたからである。三人が天水桶のかげに身をちぢめていると、くぐりから上半身をのぞかせたのは、伊丹屋のおかみのお重である。  お重はきょろきょろあたりを見まわしていたが、やがてなかへ引っ込むと、くぐりをぴったりなかから閉ざした。 「親分、お重はいったいなにを……」 「いいから、黙ってようすをみていろ。いまにおもしろい芝居が見られるだろうぜ」  お重が引っこんでしばらくしてから、こんどは勝手口のひらく音がした。  それがふたたびしまる音がしたかと思うと、だれかがこちらへちかづいてくる。  ひと足、ふた足、あたりに気をくばっているせいか、それともなにか担いでいるのか、いやにおもい足どりだ。  天水桶のこちらでは、人形佐七に辰と豆六が、手ぐすねひいて待っている。  おもい足どりは、しだいにこちらへちかづいてきたかとおもうと、やがてくろい布でほっかむりをした男のかげが、三人の鼻先へぬうとあらわれた。  ほっかむりの男は、背中に大きなつづらを背負っているのである。  その男が、伊丹屋の角をまがろうとしたとき、 「おい、兄さん、ちょっと待ってもらおうか」  佐七が声をかけるとともに、三人はバラバラと天水桶のかげからとび出したが、いや、そのときのあいての驚いたこと。 「ああっ!」  とさけんで、いきなりつづらをそこへ投げだすと、もときた道へひきかえし、勝手口からなかへとびこむと、がらがらと戸をしめてしまった。 「しまった! 辰、てめえは表をみはってろ。豆六、てめえはそのつづらをひらくんだ。それから、屋根からだれか逃げ出しゃしないか気をつけろ!」 「よし、がってんです」  佐七はふたりに指図をしておいて、バラバラと路地へかけこむと、 「あけろ、あけろ、長松はいねえか。お紋さんはおらんか。お玉が池の佐七だ。すぐにここをあけてくれろ」  佐七がどんどんくぐりをたたいていると、よほどたってから、丁稚《でっち》の長松がくぐりをあけて、まっさおにふるえている顔をだした。 「あっ、親分、おかみさんと番頭さんが……」 「長松、おかみさんと番頭さんが、ど、どうしたんだ」 「し、心中して……」 「しまった!」  長松の案内で佐七が座敷へふみこむと、あたりいちめん血のとびちったなかで、お重と利助が折り重なってたおれていた。  佐七がぼうぜんとしているところへ、あとからとびこんできたのは豆六である。 「お、親分、こら、いったいどないしたんでっしゃろ。つづらのなかにゃお亀が……」 「お亀は殺されているのか」 「いえ、れいによって首をしめられてまっけど、まだからだにあたたかみが……」  それをきくと、佐七はおもわず両手をあわせた。神に感謝したい気でいっぱいになったのである。  ろくろ首の秘密   ——この一件の殊勲甲はうらなりの豆六 「お粂、こんどの一件は、まんまとおまえがいい当てたようだな」 「あら、わたしがいい当てたとは、またなにを……?」  一件落着して、お玉が池の佐七の住まいの茶の間では、佐七が辰と豆六あいてに、ゆっくり酒をのんでいる。そばでは女房お粂が針仕事。  利助がお亀をつれてやってきてからわずか十日ほどしかたっていないが、暦は十一月にうつって、なんとなく気ぜわしい季節である。 「いやさ、こんどの一件をとくかぎは、豆六がお亀という女を思い出すか出さねえかにかかっていると、おまえあのときいったじゃねえか」 「そやそや、あねさん、いわはった、いわはった。わてがお亀を思い出せずに、じれて、じれて、じれきっているときやったなあ」 「ほっほっほ、あれは冗談。それでも豆さんがあのひとを思い出してくれてよかったわねえ」 「そうよ、こんどの一件で、いちばんの手柄もんは豆六よ。お亀がろくろ首の見世物に出ていた太夫《たゆう》だとわかったとき、おれアハッと気がついたんだ。ふたごじゃねえかとな」 「へへえ、親分、それじゃ、ろくろっ首の見世物てえな、ふたごを使うんですかねえ」 「そうよ。ふたごのひとりが肩衣《かたぎぬ》つけて三味線をひきながら歌うんだ。そのうしろにゃ、あさぎかなんかの幕が張ってあって、その幕がたてにわれるようになっている」 「そやそや、そして、ふたごのひとりが三味線ひきながら、うしろへひっくりかえって、幕のなかへ首からうえをかくしまんねん」 「そしたら、後見人がその頭から三尺くれえの長さの、ちょうちんみてえにのびちぢみできるようになっている肉色の筒をおっかぶせるんだ」 「へへえ、それがろくろっ首ってえわけですかえ」 「そやそや、その肉色の筒っぽのさきには、うりふたつのふたごのもひとりの首がとっついてるちゅうわけやがな」 「それで、用意ができたら、後見人がひっくりかえったふたごのひとりをうしろから抱き起こす。すると、幕の切れ目から顔を出したもうひとりのふたごが、だんだん背伸びをしていって、そこでにょろにょろにょろっと首がのびるという寸法よ」 「あらま、よく考えたもんだわね。だけど、そんなことでお客さんだまされるのかしら」  お粂はせっせと針をうごかしながら、おかしそうに笑っている。 「お粂、だまされやしねえよ、だれだってそれくらいのことに。だけど、ふたごのひとりが三味線をひく。すると、もうひとりのふたごがにょろにょろと首をのばしながら歌をうたう。それがおもしれえから、やんややんやと拍手|喝采《かっさい》というわけよ」 「ちっ、おもしろくもねえ」  豆六の得意顔をみるにつけていまいましく、辰はわざとつまらなそうに、ぐいぐい杯をあけている。 「ほっほっほ。すると、辰つぁんはそういう見世物、みたことがないのかえ」 「おあいにくさまですがねえ、あねさん。あっしゃ親分や豆六とちがって、趣味がいたって高尚でげすからね。そんなゲテものは見ねえことにしてるんでさあ。オッホン」 「いわはったな、兄い。まあ、よろし、よろし、せいぜいそねみなはれ、そねみなはれ」 「いや、まあ、それはそれとして、それで、親分、伊皿子の妾宅にゃアもうひと組み夜具と箱まくらがあったんですね」 「そういうこったな。うりふたつのふたごの女を、右と左に添いねさせ、川という字になってねるのが、ばんじコッテリ趣味の重兵衛のお気に召していたんだろうよ」 「いやあねえ」 「そやけど、あねさん、重兵衛としたらどないしてでも跡取りがほしかったんだっしゃろ。それやったら、ひとりよりふたりのほうが効率がよろしおまっしゃないか」 「いや、親分、こりゃ豆六のいうとおりだ。重兵衛はよくよく子宝がほしかったんでしょうねえ」 「そやそや。そやけど、世間にはうちのあねさんみたいな口うるさいのがぎょうさんおりまっさかいにな。そこで、ふたごといわず、あくまでお亀ひとりちゅうことにして、世間をごまかしとったんだっしゃろ」  豆六、きょうはいやにさえている。 「だけど、親分、それでだいたい事情はわかりましたが、利助が下手人として、あいついつ重兵衛やお亀を殺したんです」  佐七は沈痛なおももちで、 「そりゃア、ここへくるまえだろうな」  聞いて一同はおもわずさっと顔色がかわった。なかでもお粂はおびえたように針を運ぶ手をやすめ、佐七の顔を凝視している。 「それじゃ、おまえさん、あのとき利助という男、もう人殺しをしていたのかえ」 「ふむ、恐ろしいこった。まったくおっかないことだ。しかし、それよりほかに考えようがねえからな」  お粂はいうにおよばず、辰と豆六も息をつめて、佐七の顔を見つめている。  いきおい佐七はあらためてこの恐ろしい一件の絵解きをしなければならなかった。  悪魔の悪だくみ   ——主と家来が密通すればハリツケ物 「あの晩、お重がまずふたごのひとりを門前仲町の本宅へよびよせる。呼ばれていったのはお鶴《つる》のほうだ。そのあとへ利助のやつが忍んでいって、たったひとりでいるお亀《かめ》をしめころしたんだ。そこへなんにも知らずにやってきた重兵衛をなんとかごまかし、油断をみてたったひと突き。そのあとで首をしめやアがったんだ。いかにもあのさいちゅうに殺されたように見せかけるためなんだな」 「それじゃ、ふたりとも裸になっていたのは……?」 「みんな利助が舞台ごしらえをやりゃアがったんだろ。いかにも、お楽しみのさいちゅうか、お楽しみのあったあとで殺されたように見せかけるためにな」 「ほんなら、親分、お亀のからだに男とねてお楽しみがあったように見えてたんは……?」  と、豆六はおもわず息をのむ。 「それよ、この一件でいちばん恐ろしいのは。ありゃ利助のやつがお亀の死体にいたずらをしやアがったにちがいねえ。わざと生ぐさいやつを残しておきたかったんだろうな」 「おまえさん! なんだってそんなあさましいことを……?」 「ふたりが殺された時刻をごまかすためよ。お亀がここからかえっていって、待っていた重兵衛とよろしくやったそのあとで殺されたように見せかけるためだな」 「なるほど」  と、辰はパチンと指をはじいて、 「その時刻にゃ、利助のやつ、品川の伊勢屋の二階で、お駒《こま》を抱いてぬくぬくねていた。だから、疑いがかからねえというわけですね」 「わかった、わかった!」  と、豆六もすっとんきょうな声をはりあげ、 「そやさかい、あいつわざとここから駕籠に乗っていきよったんだんな」  その駕籠を呼びにいったのはお粂である。 「まあ、恐ろしい。そんな恐ろしいことをしたあとで、よくもいけしゃあしゃあとここへやってこれたもんだねえ」  お粂はもうお針どころではなくなった。ゾーッとしたように肩をすぼめて、長火ばちのそばへ寄ってくる。 「ほんとにそうだ。そういうえげつないことをやってのけたそのあとで、なに食わぬ顔をして、いったん門前仲町のお店へかえり、そこに待っていたお鶴をつれて、ここへやってきやアがったんだ。ここで駕籠をやとったのも、いま豆六がいったとおり、後日の証人にするつもりよ」 「なあるほど」  と、豆六もはじめて合点がいったように、 「それで、親分はあの妾宅《しょうたく》の行灯《あんどん》の油を気にしてやはったんだんな」 「そういうことよ。見せかけどおりの時刻にふたりが殺されたとしたら、油つぼの油がもそっと減っていなきゃならねえ。あれじゃ、重兵衛はお亀がこのうちからかえってくるまで、暗がりのなかで待ってたってことにならあ」 「上手の手から水がもれたということですね」 「あれだけえげつない舞台ごしらえしておきながら、行灯の油にまで気がまわらなんだちゅうわけだんな」  辰も豆六もため息ついた。 「いや、よく考えた一件ほど、どこかに手抜かりがあるものよ。だが、そうはいうものの、お亀がふたりいるということがわからなきゃ、このおれだってあいつらの手にひっかかっていたかもしれねえ」 「ようよう、豆六さん、大手柄!」  辰がやけにはやしたてれば、こんどは豆六も鼻白んで、 「いえ、それほどでもおまへん。そやけど、親分、お重や利助は、お亀がふたごだということを知っとったんでっしゃろな」 「そりゃアな、だんなのほうでは、いかに連れ添う女房でも、ふたごのきょうだいを右と左に抱いて寝るとはいいにくかろう。だから、内緒にしてあったにちがいねえが、そこはジャの道はヘビだアな。いつかそれに気がついたが、わざと素知らぬ顔をしていて、そいつをこんどの人殺しにまんまと役に立てやアがったんだろう」 「それにしても、おまえさん、お鶴ちゃんはあの晩なんだって、まっすぐに伊皿子へかえらずに、のこのこ門前仲町へいったんでしょうねえ」 「そりゃア、あねさん、あのまままっすぐ妾宅《しょうたく》へかえられちゃ、なにもかもばれてしまいます。だから、お玉が池のかえりがけ、もいちどここへ寄るんですよと、お重のやつがくれぐれも念を押しといたにちがいねえ。なんしろ、本妻さんのいうことだから、お鶴のお亀もそむくわけにゃいかなかったんでしょうよ」 「そやそや。きっと、ようでけた本妻さんや、ちゅうことになっとったんでっしゃろ」 「それをひっくくって、サルグッワをかませたうえ、土蔵のおくへ押しこめておいたのかえ」 「なにしろ、本宅にゃ、耳の遠いばあやと、がんぜない長松のふたりきり、そんな荒っぽいまねをしても、だれにも気づかれずにすんだんですねえ」 「そやけど、親分、そのときなぜひと思いに、お鶴を殺してしまわなんだんだっしゃろ」  佐七はしばらく黙っていたが、やがておもい口をひらいて、 「辰、豆六、お粂もよく聞け。そこがこの一件のいちばん恐ろしいところでもあり、また、お重利助のいちばん困ったことでもあったろうと思う。だが……」 「とおっしゃいますと……?」 「殺してしまえば死体がくさる。死体がくさればにおいを発する。豆六も人間の死体がくさるときどんなにおいを発するかしってるだろう」 「まあ!」  と、お粂は慄然《りつぜん》として息をのみ、 「それじゃ、お鶴ちゃんを生かしておいたのは、慈悲や情けじゃアなくって……」 「死体のしまつをつけやすい時期がくるまで、わざと土蔵のなかで……」 「生かしておいたちゅうわけだっか」  辰と豆六も唖然《あぜん》として顔見合わせる。  佐七も顔をくもらせて、 「だから、まったく危ねえ瀬戸際だったな。おそらく、利助はお鶴を殺し、裸にして川か海かへ投げこむまえ、死体の顔を石かなんかでぶちわって、どこのだれともわからぬようにしておくつもりだったんだろうよ」 「それをやられちゃアおしまいでしたね。世間ではお亀がふたりとはだれも知らなかったんですからね」 「身元不詳の変死人てえところで、けりということになったろうな」 「いや、豆六、恐れいったよ。それじゃやっぱりおめえの大手柄だ」  辰がすなおにかぶとをぬげば、豆六、いよいよ鼻白んで、 「いや、そらもう、けがの功名ちゅうとこだすがな。そやけど、親分。お重と利助は密通さらしとったんだっしゃろな」  佐七はいよいよ顔色をくもらせて、 「ふたりが死んでしまったあととなっては、当て推量でいくよりほかはねえが、ことの起こりは去年お仙《せん》というひとり娘が死んだことから端を発してるんじゃねえか。だんなとしちゃ子どもがほしい。しかし、あのおかみさんじゃもうむりだ。そこでおめかけをもったんだが、おなじもつなら、さっき豆六さんもおっしゃたとおり、効率ということをかんがえて、ふたり持とうというわけで、ふたごのきょうだいをめかけにしたんだろうな」 「エッヘッヘ、恐れいります。そやけど、親分、そのほうがばんじコッテリ趣味の重兵衛の好みにかのうとったんとちがいまっか」 「まあ、そういうこったろうな。あの妾宅《しょうたく》の枕|屏風《びょうぶ》には、ずいぶんコッテリとした絵がはりつけてあったからな」 「おまえさん、それをおかみさんが焼いたのかえ」 「いや、焼いたばかりやおまへんやろ。あないなポチャポチャしたおめかけをふたりまで持ってみなはれ、いかに重兵衛はんがお達者なかたでも、あのギスギスしたおかみさんにまで配当がまわらなんだんとちがいまっか」 「あっはっは、豆六、てめえなかなかいいことをいうじゃねえか。それで、閨寂《ねやさび》しさに利助に手を出しゃアがったか」 「いや、どっちがくどいたかしらねえが、お重としちゃ亭主にたいする面当てもあったろうよ。しかし、主と家来が密通すればハリツケもんだ。危ねえ橋はふたりとも覚悟のまえだったろうな」 「なるほど。そこで、亭主をなんとかしようと思っているやさき、権之助がゆすってきた」 「辰、てめえ、権之助がゆすってきたとは、どうしてしってるんだ」 「えっ、お、親分、とおっしゃいますと……?」 「だって、それをいうのはお重と利助だけじゃアねえか。お鶴のお亀がここへきた晩なんといった。権之助さんというひとがちょくちょくまいりまして、だんなとひそひそ話をしております。わたしはそんな悪いひととは、こんやおかみさんに呼ばれてお話をうかがうまでは、ちっとも存じませんでしたと……」 「ち、畜生ッ」 「お、親分、ほんなら権之助が重兵衛をゆすっていたちゅうのんは、お重と利助のこしらえごとだっかいな」 「権之助はゆすりにきたんじゃなく、あのときの礼にきたのかもしれねえよ。重兵衛という男は、色好みは色好みでも、なかなか侠気《おとこぎ》のある男だったというから、なんとか身のふりかたでもつけてやろうとしていたんじゃねえのかな」 「おまえさん、そ、それじゃ権之助さんというひとは……?」  いいかけて、お粂ははたと口をつぐんだ。  辰と豆六も息をのんで佐七の顔を見つめている。それほど佐七の顔色は険しかった。しばらくして重い口をひらくと、 「あの晩、権之助が門前仲町の本宅へまたぞろゆすりにきたというが、その権之助に会ったというのはお重ひとりだ。しかも、その日重兵衛は、おとくいさまから百両という大金を受け取っている。しかも、その重兵衛は、いったん本宅へかえってから伊皿子の妾宅へおもむいているんだ。そんな大金をふところに、あんなチャチな妾宅へ出向いていくはずはねえと思わなきゃならねえ」 「しかも、その晩、重兵衛は殺されてる」 「そやそや。おまけに、下手人は権之助と、みんな思いこんでましたさかいになあ」 「それよ。だから、そこへ権之助がのこのこ出てきて、わたしゃあの晩、門前仲町のお店へ顔出ししたおぼえもねえし、だんなが殺された時刻にゃ、これこれしかじかのところにおりましたと、生き証人でもつれてきたとなると、お重や利助はどうなるんだ」 「それじゃ、おまえさん、権之助という男も……」  しかし、お粂もそれいじょうはことばがつづかなかった。あまりにも恐ろしく、残酷な真相だったからである。  それにたいして、佐七もまた暗澹《あんたん》たる顔をして、ただ首を左右にふるだけで、なんとも答えは出さなかったが、その答えはそれから十日ほどのちに出た。  十一月には珍しい大あらしがあって、江戸かいわいはひと晩中、荒れに荒れくるったが、あらしが去ったあとの鮫洲《さめず》の海岸に、男の死体が打ちあげられているのが発見された。しかも、その死体は一糸まとわぬ素っ裸であったばかりではなく、めちゃめちゃに顔をたたきこわしてあったという。  こういうくらい話ばかりのなかに、ただひとつの救いというのは、お鶴が重兵衛のタネを宿していたということだろう。伊丹屋にはわりによい親戚《しんせき》があったので、それとわかるとその親戚がお鶴をひきとり、ゆくゆくはお鶴の腹からうまれる子に伊丹屋ののれんをつがせるという。     猫《ねこ》と女行者  女行者|橘左京《たちばなさきょう》   ——死体のまわりに五匹のねこが  職業柄、佐七もいままでずいぶんいろいろ血なまぐさい事件もあつかってきたが、こんなむごたらしい死体にぶつかったのははじめてだった。  女行者の橘左京《たちばなさきょう》は、素膚に緋《ひ》の長袴《ながばかま》をつけ、祈祷所《きとうしょ》のなかで切り殺されていたのだが、その上半身には、じつに五カ所の、なまなましい手傷をおうているのである。  もっとも、致命傷となった左の乳房のしたのひと突きをのぞいては、いずれもとるにたらぬ薄手だったが、それにしても、これだけ切りきざまれるあいだ、だれも気がつかなかったとはふしぎだと、佐七も首をひねらずにはいられない。  女行者、橘左京の行状については、佐七もこのあいだから内々さぐりをいれていたのである。  この春ごろから、茅場町《かやばちょう》の薬師のそばに、神道教祈祷所という看板をかかげて祈祷をこととする女行者があるということは、はやくから佐七の耳にもはいっていた。  女行者の名まえは橘左京といって、としこそ三十前後のうばざくらながら、すごいようなべっぴんだとも聞いていた。  祈祷をおこなうことじたいは、べつに違法でもない。  それがたとえ多少まやかしの祈祷であったにしろ、だまされるほうが悪いのだ。  しかし、橘左京の評判があんまりたかいのと、それにもうひとつ、当人がいいだしたのか、それとも他人のかってな憶測なのか、橘左京とは京都の公卿《くげ》の息女であるらしいといううわさがたったから、町奉行所でも捨ててはおけなかった。  そのころはまだ幕末のように、江戸と京都のあいだが険悪になっていたわけではないが、江戸時代二百七十年を通じて、京都のことといえば、幕府はつねに神経をとがらせていたのである。  うそかまことかしらないが、その京都の公卿の息女がおひざ元にいるとあっては、町奉行所でも警戒の目を光らせずにはいられなかった。  そこで、八丁堀《はっちょうぼり》のだんな衆の命をふくんで、この秋ごろから佐七が内々、祈祷所の内部へさぐりをいれているやさき、当の本人橘左京が惨殺されたというこんやの知らせ。 あいてがあいてだから、いままでのいきがかりじょう、佐七によろしくたのむというのが、八丁堀のだんな衆の腹づもりなのだろうが、佐七がその報告を受け取ったのは、江戸の町々に年の市ののぼりがはためきはじめた師走の十七日。 「気ぜわしい季節だが、そこをなにぶんよろしく頼む」  というのが八丁堀のごあいさつ。気ぜわしかろうがかるまいが、事件の捜査にあたるのが岡《おか》っ引《ぴ》きの稼業《かぎょう》、岡っ引きには盆も正月もないのが常識である。  そこで、佐七がとるものもとりあえず、辰と豆六をひきつれて、師走の空っ風の吹くなかを茅場町の祈祷所へ駆けつけたのは、夜も更けて四つ(十時)ごろのことだったが、現場は筆紙にもつくしがたいほど、むごたらしいこのていたらく。  そこは十二畳じきくらいの、さむざむとした白木造りの祈祷所で、正面には翠簾《あおすだれ》、壇のうえにはかたのごとく鏡がまつってあり、鏡のまえにはさかきや幣束。  そのほか、信者からのお供えものらしい品々が山のようにつんであるところまではよかったが、そのお供えもののなかに、まっくろなからすねこが一匹、むざんにのどをえぐられて、血みどろの死体をよこたえているのが気味悪い。  さて、橘左京の死体だが、これはわらの円座のうえに幣束を握ったままのけぞっている。まえにもいったように、どういうつもりか、橘左京は素膚のうえに緋《ひ》の長袴《ながばかま》だけつけているのである。  したがって、腰部からうえはむき出しで、むっちりとした乳房のふくらみのうえに、さんごの玉をちりばめたような乳首の赤さ。  胸から腹へかけての三十女の脂ののった曲線が、辰や豆六の目になやましい。  だが、なやましいとばかりはいっていられないのだ。  さっきもいったとおり、胸から腹、さては左右の腕へかけて、四ケ所の薄手をおうており、さいごにえぐられた左の乳房のしたの傷口からどっと吹き出したおびただしい血潮が、むごたらしく左のわきから円座のうえを染めている。  しかし、恐ろしいのはそればかりではない。そこには、もっと気味の悪いことがあった。  死体のまわりには、一匹、二匹、三匹、四匹、五匹のねこがうろちょろしていて、なかには死体から流れる血潮をなめたらしく、真っ赤な口をしているやつもある。  これには、現場へふみこんだとたん、佐七をはじめ辰も豆六も、 「あっ、こ、これは……」  と、おもわずその場に立ちすくんだ。 「しっ、しっ、あっちへお行き。まあ、お師匠さまの血をなめたりして……なんぼ畜生でもあさましい。しっ、しっ、あっちへお行きったら」  案内に立った五十ばかりの、これまた白の小そでに緋《ひ》の袴《はかま》をはき、白髪まじりの髪をさげ髪にした行者すがたの老女が、気ちがいのように手をふり、足をふり、おそろしいねこどもを追っぱらっている。  しかし、いったん血の味をおぼえたねこは、容易にその場を去ろうとはせず、ぶきみに目を光らせ、舌なめずりをしながら、死体のまわりをうろうろしている。  なかには全身に血を浴びているのもあり、そのへんいったい床のうえには、紅梅の花を散らしたように、血に染まったねこの足跡が散らばっている。 「ねこは魔物というが、まあ、なんて気味の悪い! しっ、しっ、あっちへおいでったらおいで。式部さん、なにをぼんやりしているのさ。あなたもてつだって、ねこを追っぱらってくださいよ」  気ちがいのような老女のキイキイ声にうながされて、 「は、はい……」  と、ふるえ声でこたえたのは、これまた白の小そでに緋の袴、さげ髪にした行者すがたの小娘で、としは十五、六というところだろうが、おしろいのあつい顔に、まゆずみをこくおいたところが、におうばかりにうつくしい。  老女と式部は、壇のうえから幣束をとって、 「しーっ、しーっ、はやくあっちへお行きったら。行かないとこれでぶつよ。これ、あっちへお行きったら!」  と、夢中になって幣束を振りまわしている。  それはこっけいといえばこっけいだが、そのこっけいさの底には、なんともいえぬほど、恐ろしくもぶきみなものがひそんでいる。  さすがの辰と豆六も、日ごろの軽口冗談もでず、茫然《ぼうぜん》として息をのんでいる。  ひとしきり気ちがいのような老女と式部においまわされて、さすがに執念ぶかいねこどもも、一匹と去り、二匹と逃げ、やっとみんないなくなってしまった。 「ほんとに恐ろしい。まあ、なんという罰当たりどすやろ」  やっとねこを追っぱらった老女は、祈祷所のすみにべったりしりもちつくと、きゅうにしくしく泣き出した。  いままでの恐怖と興奮の反動がやってきたのだろう。外では木枯らしの音がさむざむと……。  かくし祈祷《きとう》   ——それじゃ千々岩大八さまが 「式部さん、おまえさん、式部さんというんですね」  佐七も夢からさめたように、かたわらにいる小娘をふりかえる。 「は、はい……」  式部は手にした幣束をそっとしたへおくと、涙声でこたえてうつむいた。  鈴を張ったようなさかしげな目、すんなりとした鼻すじ、愛くるしく紅をさした口もと、うりざね顔のそのかんばせは、じっさい、ふるいつきたいほどうつくしい。 「さっきのねこは、みなこのうちの飼いねこかえ」 「は、はい……お師匠さまがとてもねこ好きでいらっしゃいましたから」 「お師匠さまというのは、そこに殺されている橘左京さんのことかえ」 「は、はい」 「おまえさんは、左京さんのお弟子さんなんだね」 「は、はい、さようでございます」 「左京さんは京都のうまれだというひょうばんだが、おまえさんも京都かえ」 「いえ、わたしは江戸でございます。お師匠さんが去年、江戸へ出てこられてから、お弟子にしていただいたんです」 「なるほど。ところで、そちらで泣いていらっしゃるあのかたは……?」 「はい、あのひとは戸無瀬《となせ》さんとおっしゃるんです」 「戸無瀬さんもやっぱり、そこに殺されていらっしゃる左京さんの……?」 「はい、あのかたは京都からついてこられた古いお弟子さんでいらっしゃいます」 「京都から……?」  と聞いて、佐七はちょっと辰や豆六と顔見合わせた。 「このうちには、そこに殺されている左京さんと戸無瀬さん、それからおまえさんの三人きりかえ」 「いいえ、ほかに下働きのものがふたりおります」 「男かえ、女かえ」 「ふたりとも女でございます」 「すると、この家には、男はひとりもいないんだね」 「はい、お師匠さんが女ですから、男はひとりもおかなかったんです」  としはわかいが式部というこの娘、なかなかしっかりしていると佐七は感心した。声こそ低いが、ことばつきはハキハキしてよどみがなかった。  佐七は戸無瀬のほうへむきなおって、 「もし、戸無瀬さん、泣くのはもうおよしなさい。年がいもない。この娘でさえこんなにしっかりしているのに」 「へえ、すみません」  戸無瀬はやっと泣きやむと、涙をふいて顔をあげた。  薄化粧をしている顔が、ところどころ涙ではげちょろけになり、そうでなくともあんまり美しくない顔が、いっそう醜悪にゆがんでいる。 「そうそう、おまえさんは京都いらいの左京さんのお弟子さんだそうだが、橘左京さんというのは、京都のお公卿《くげ》さんのご息女だとかいうじゃないか」  戸無瀬はしばらくだまっていたのちに、 「あんなこと、みんなうそどすえ」  と、にべもなくいい放つと、不安そうな目で佐七を見ながら、 「そうやかて、親分さん、わてらのほうからお師匠さんのことを公卿のご息女やなんていいふらしたためしは、いちどだってございませんのどすえ。お師匠さんはあのとおりきれいなおかたどすし、行儀作法もしとやかに身についていやはりますところへさして、お江戸のかたは物好きどすさかいに、いつのまにやらそんなうわさが立ってしもうて……」 「しかし、おまえさんがたのほうでも、それを打ち消しもしなかったんだろ」  そばから辰が口をとんがらせると、豆六もすぐしりうまにのるやつで、 「そやそや、どこかのご大身のご隠居さんが、聞けばそなたは京都の公卿のご息女じゃそうななと、面とむかってたずねたとき、左京はん、そのようなことは万事ご想像におまかせしまっけど、壁に耳ある世のたとえ、お奉行所がうるそうおすさかいに、滅多なことはおっしゃらぬよう……と、味な目をしたちゅうやないか」  と、辰と豆六につっこまれ、 「さあ、それは……」  と、戸無瀬はシドロモドロにあわてながら、 「それはお師匠さんも利口なかたでおしたさかい、多少そういううわさを利用なさらなんだとは申しまへんけれど、決してわたしどもの口から、公卿のご息女じゃなどと、だいそれたことをいいふらしたおぼえは、いちどもございませんのどすえ」  火の気のない祈祷所《きとうしょ》のなかは、凍るような寒さである。その寒さのなかに、額にビッショリ汗をかきながら、なにが戸無瀬をこうも簡単に公卿の息女一件が事実無根であることを白状させるのか、と、佐七はむしろそのほうに興味をおぼえた。  おそらく、このような奇怪な事件をひき起こした以上、これから詮議《せんぎ》がむつかしかろう。なおそのうえに、公卿の息女一件にこだわっていては、どのようなおとがめをくわぬがものではないと、そこは年輪からくる狡知《こうち》である。公卿の息女一件からは、いちはやく逃げを張っておこうというのだろう。  しかし、佐七にとってはこれこそもっけのさいわいで、うんと探索がしやすくなったというものである。 「さあ、それじゃ今夜のことを話してもらいましょうか。どうしてこんなことになったんです」 「そんなこと、わたしどもにはわかりまへん。ここがあんまり静かどすさかい、式部さんときてみたら、こんなことになってしもうて……」  年寄りの涙ぐせというのか、戸無瀬はまたそで口を目におしあててメソメソ泣き出す。 「おまえさんたちは、今夜どこにいたんです」 「母屋のほうにおりましたんどす。お師匠さんが呼ぶまできてはならぬと、きつういお申しつけでござりましたもんどすさかいに」  この祈祷所は母屋とわたり廊下でつながれた離れになっているのである。 「しかし、おまえさんはいま、呼ぶまではきてはならぬというお師匠さんのきつういお申しつけだったといったじゃねえか」 「へえ」 「それを、呼ばれもせぬのになぜきたんだ。なにか怪しい気配でもあったのかえ」 「いえ、あの、それが……」  と、戸無瀬は切なそうに、また額に汗をビッショリ浮かべて、 「母屋のほうにおりますと、はじめのうち祝詞《のりと》とをとなえる声がきれぎれに聞こえておりましたんどす。それがだんだんたこうなってきて、なんやらこう、物狂わしい調子になってきたかと思うと、そのうちに、だれかといい争うていやはるんやないかと……」 「なに……? だれかといい争うていたと……?」 「いえ、あの、そんなように聞こえただけで、ここにいる式部さんなんかは、それはわたしの空耳で、祝詞に熱がはいってるとこやさかいに、むやみにおじゃませんほうがええ……と、こういやはるもんどすさかい……」 「ふむ、ふむ。それで……?」 「それでわたしも控えておりましたんどす。そしたら、急に祝詞がプッツリ切れて、あとはシーンと静まりかえって……しかも、それがずいぶん長いことどすさかい、こんどはかえって式部さんのほうが気をもみだして……」 「はい、わたしこの祈祷所に、お師匠さんよりほかにひとがいるはずがないと思ったもんですから、いったんは戸無瀬さんの意見に反対しましたが、急に静かになってしまったでしょ。しかも、静かになるまえに、悲鳴のようなものが聞こえたような気がして……」 「悲鳴を聞いた……?」 「いえいえ、それもこうなってからの思いすごしかもしれないんです。どちらにしても、あまり静かでかえって気味が悪いものですから、戸無瀬さんにいって、いっしょにきてみたんです」 「ふむ、ふむ、なるほど。それからさきは、戸無瀬さん、おまえさんの口からきこう。さて、この祈祷所へきてみたら……?」 「はい、なかはまっ暗でおした。いえ、あの、祈祷所へはいる戸締まりはしてなかったんどす。そこで、式部さんとかわるがわるお師匠さんの名を呼びながら、すり足、手探りで歩いているうちに、思わずギョッといたしましたのは……」 「思わずギョッとしたというのは……?」 「なにやらツーンと、鼻をつくにおいでござりまっしゃろ。それが血のにおいではないかと気がついたときの怖かったこと! そこへ式部さんが、あっ、お師匠さんがここに裸で倒れておいでになるとおっしゃるもんでござりますから……」 「ふむ、ふむ。それで……?」 「それで、式部さんのそばへはいよって、暗がりの手探りでさぐってみますと、お師匠さんが円座からずり落ちそうになっておいやして、しかもニチャッと血の手触り……」 「ふむ、ふむ、それでどうした。すぐ灯をつけて調べてみたのか」 「いえ、あの、式部さんが明かりを……明かりを……母屋へいって明かりをもってきてくださいと、そうおいいやすもんどすさかいに……」 「なにも母屋までいかなくとも、ここにゃこんなにたくさん、ろうそくやお灯明があるじぇねえか」 「でも、この暗がりのなかで火打ち石やなんかさがすのはたいへんどすし、母屋へいたほうがはやいと思ったんどすえ」 「ふむ、ふむ。それで……?」 「それで、母屋からわたしが雪洞《ぼんぼり》に灯をいれてかえってくると、式部さんがひと足さきに、百目ろうそくに灯をつけて、お師匠さんの死骸《しがい》をのぞきこんでおいやしたが、わたしの顔をみると、戸無瀬さん、あのときやっぱりここにだれかひとがいたんだ。お師匠さんが、これ、このとおり、むごたらしゅう刺し殺されて……と、気ちがいのようにわたしにむしゃぶりついておいでやして……そこで、あらためてよくよくあたりを見まわすと、これ、このとおりのありさまで……わたくしもう気が狂いそうな気持ちどすえ」  さすがに戸無瀬ももう泣かなかったが、ひとみの底に凍りついた恐怖は、生涯《しょうがい》消えぬべきもがなと思われるほど深刻だった。  佐七はあらためて惨憺《さんたん》たる祈祷所のなかを見まわしながら、 「それにしても、お師匠さんはここでなにをしていなすったのかえ」 「はい、あの、それはもちろんご祈祷をしておいでになりましたんどす」  佐七はギロリと目を光らせて、 「おい、おい、冗談いっちゃいけねえ。それじゃ、左京さんはこの寒空に、裸に袴《はかま》だけつけて祈祷をしていたというのかえ」  佐七にするどくつっこまれて、 「いえ、あの、それですから、お師匠さんは、きっと、かくし祈祷をしていらっしゃったんでしょう」 「かくし祈祷というのは……?」 「はい、あの、それは……」  戸無瀬はことばをにごして目を伏せる。式部もそっと下くちびるをかんでいる。  佐七はきっとふたりの顔を見くらべながら、 「もし、戸無瀬さん、式部さんもはっきりいってくれなきゃいけねえ。かりにもおまえさんたちの師匠にあたるひとが殺されたんだ。かくし祈祷というのは、いったいなんだえ」 「はい、あの、それは……」  と、式部は声をふるわせて、 「のろいのご祈祷……ひとをのろうときのご祈祷なんです」 「のろいのご祈祷……?」  佐七はギョッと辰や豆六と目を見かわせる。 「はい、のろいのご祈祷、かくし祈祷には、いけにえを神にささげねばなりませぬ。そのいけにえの血で、小そでをけがしてはなりませぬから、そうして素膚に袴《はかま》だけをおつけになって……」  佐七は、お供物のあいだによこたわっているまがまがしい黒ねこの死体に目をやりながら、 「それじゃ、あのからすねこがいけにえかえ」 「はい、きっとそうだと思います」 「それで、お師匠さんはいったいだれをのろうていたんだえ」 「さあ、それは……そこまでは存じません」  式部はそっと目をそらす。 「式部さん、おまえ、ほんとうにしらないのかえ」 「はい、ほんとうに……」  だが、その語尾はかすかにふるえている。 「戸無瀬さん、おまえはどうだえ。左京がだれをのろうていたかしらないかえ」 「はい、わたしもいっこうに……式部さんのしらないことを、わたしのしる道理がおまへんのどす。お師匠さんはそれはそれは式部さんをかわいがって、おふろもいっしょにはいるくらい、なんでも打ち明けていやはりましたのに……」  これが老女のねたみというのか、戸無瀬の声には皮肉なひびきがこもっている。  式部はぽっとほおをそめた。  佐七は式部のほうへむきなおって、 「おい、式部さん、おまえそんなにかわいがられたお師匠さんを、だいじだとは思わねえのか。いやさ、お師匠さんを殺されてくやしいとは思わねえのか」 「はい、あの、それはくやしゅうございます」 「それじゃ、なぜ打ち明けていわねえ。ひょっとすると、お師匠さんののろうていたあいてがそれとしって、ぎゃくに師匠を殺しにきたのかもしれねえ」  式部ははっと顔をあげ、 「あっ、それじゃ、あの千々岩大八さまが……」  と、われにもなく口走って、はっと顔を青ざめた。  居合い抜き浪人   ——かわいさあまって憎さが百倍 「だれだえ、その千々岩大八というのは……? お侍かえ」 「はい、あの、その、千々岩大八さんなら、この裏にすむ浪人者、大道で居合い抜きをしているおひとどすえ」  黙ってひかえている式部にかわって、老女の戸無瀬がひざをのりだした。 「その浪人者を、左京がのろうていたのかえ」 「はい、そういえば、お師匠さまはあのひとをとてもにくんででござりました。どういうわけか、それは式部さんがしっていやはりまっしゃろ」 「おい、式部、左京はなんだって、大道の居合い抜きを憎んでいたんだ」 「わたしとしたことが、よしないことを口走って……千々岩さまはりっぱなおかた。こんなむごたらしいことをなさるようなかたではございません」 「式部、おいらのきいているのは、そんなことじゃねえ。左京はなんだって千々岩大八を憎んでいるんだ。かくし祈祷《きとう》をするほども、なんだってその男をのろっているんだ」 「はい、あの、それは……」  式部は顔色青ざめて、しばらくもじもじしていたが、やがて佐七に問いつめられて語ったところによるとこうである。  この秋、女行者の橘左京は、弟子の式部をつれて王子へ紅葉狩りにいった。  ところが、なにしろふたりともぱっと目につく器量である。  三人づれの中間に、女ふたりとつけこまれて、やれ酒の酌《しゃく》をしろの、やれどこかへいっしょにいこうのと、しつこくつけまわされて、難渋しきっているところへ、とび出したのが居合い抜きの千々岩大八。  もののみごとに悪者をとって投げたその男が、おなじ町内、しかもわが家のすぐ裏に住むとしって、左京はぽっときたのである。  それ以来、男所帯で不自由だろうと、なにかと親切をつくしていたが、大八はまるで木の股《また》からでもうまれたように、かえって有り難迷惑の顔色である。  さりとてむげにも退けもせず、柳に風と受け流していたから、左京のおもいはいよいよつのった。  そこで、とうとう、女の口から恥ずかしながら……と、男に情をせまったが、そのとき大八はなんにもいわず、ただ大声あげて笑いとばした。  それが左京にぐっときたのである。 「お師匠さまは気位のたかいかたです。それに、あのようなよいご器量、いままでお師匠さまのほうから水をむけて、おもいが遂げられなかったためしはございませぬ。それをただ笑いとばされては……お師匠さまがくやしがりなさいますのもごむりではないと存じます」 「なるほど、かわいさあまって憎さが百倍というわけだな」 「はい、それですから、あのかたをかくし祈祷《きとう》でのろい殺してやるとおっしゃって……」 「しかし、大八のほうでは、じぶんがのろわれているとしっているのか」 「はい、それはよくご存じでしょう。お師匠さまは面とむかってそうおっしゃったそうですから」 「ふうむ。そして、千々岩大八というのは、すぐこの裏に住んでいるんだな。おい、辰、豆六、裏木戸のしまりを調べてみろ」 「おっと合点です」  辰と豆六がとび出していったあとで、佐七はまた式部のほうにむきなおった。 「式部。おまえはいま、お師匠さんのほうから水を向けて、おもいが遂げられなかったためしはないといったが、左京はそんなにうわきをするのか」 「あれ、まあ、どうしましょう。わたしとしたことが……」  式部は顔をあからめて、困ったようにうじうじしている。 「いいじゃねえか。なにもかもいっちまえ。左京にはだれかきまった男があるのか」 「はい、あの、それは……」  と、ひざをのりだしたのは戸無瀬ばばあ。 「式部さん、なにもかもいっちまいましょう。どうせ近所でもご存じのこと。親分さんがお調べになれば、すぐわかってしまいます。親分さんは、お薬師さんのまえに、伊勢屋《いせや》という大きな金物屋があるのをご存じでしょうか」 「ふむ、ふむ、しってる。茅場町《かやばちょう》小町って評判の娘がいるうちだな」 「はい、お露さんというかたです。そのお露さんの父御《ててご》の伊兵衛《いへえ》さんとおっしゃるかたが、お師匠さんの世話をしていらっしゃるんです」 「ああ、それじゃ、伊勢屋のだんながこの左京を……」  佐七はちょっといかにも男の好きごころをそそりそうな豊満な左京の肉体に目をやって、 「それじゃ、お露という娘もここへくるのか」 「いいえ、あのかたはいちども……なんだか、お師匠さんを憎んでいらっしゃるらしく、道であってもよい顔はなさいません」  おそらく、父をたぶらかす女と、お露は娘心からいちずに左京を憎んでいるのだろう。 「お露さんはおみえになりませんが、そうそう、お米《よね》さんというかたがいちどおみえになりました」  戸無瀬が思い出したようにつぶやいた。 「なんだえ、そのお米さんというのは……?」 「はい、あの、伊勢屋のだんなが深川の六間堀《ろっけんぼり》にかこっていやはるかたやとか……なんやらたいそうなごけんまくで、お師匠さまに、さんざん皮肉をいうておいでになりました」 「なんだ、伊勢屋のだんなにゃ、ほかにもめかけがあるのか」 「はい。それですから、お師匠さまも気をわるうして、うらの千々岩大八さまに……」 「なるほど、だんながだんななら、じぶんもじぶんというわけだな。そいつを振られたもんだから、腹を立てるのもむりはねえ。ときに、そのほかに男は……?」 「いえ、もうそんなにたくさんは……」  戸無瀬は打ち消したが、すぐまた思い出したように、 「そう、そう、そうおっしゃればもうひとり、瀬戸物町の柊屋《ひいらぎや》さんの若だんな、辰三郎《たつさぶろう》さんというかたが、たいそうお師匠さんにご執心で……」 「でも、戸無瀬さん、お師匠さんはあのかたとはべつに……」 「それはそうだけれど、辰三郎さんのほうではずいぶんご執心どしたさかいに……」 「辰三郎というのは、いくつぐらいの男だえ」 「はい、二十二、三でございましょうか」 「そんな男が、どうして祈祷所などへくるようになったんだ」 「はい、あの、それはこうどすの、辰三郎さんの妹さんに、お早さんというかたがございますんで。としは十六、七でしょうが、お気の毒に、少し足りないんでございますね。それを苦にやんで、母御さんがここへつれておみえになるようになったんどすが、母御さんのご都合のわるいとき、辰三郎さんがかわりにお早さんをつれてこられて、それ以来、お師匠さんにぞっこんと……」 「ぶちこんだというわけだな。そして、ちかごろでも通ってくるのか」 「はい、あの、ずうっと……」  そこへ、辰と豆六がかえってきた。 「親分、裏木戸にこじあけた跡があり、外のどぶにこんな刀が……」  辰がさし出したのは抜き身のわき差し。どぶからいまひきあげたばかりとみえ、どろまみれになっているが、そのどろのしたにべったり血が。  式部が、そのわき差しを見ると、はっと目の色をかえて、 「あっ、そのわき差しは大八さまの……」 「なに、それじゃこの刀は、千々岩大八のものだというのか……」 「いえ、あの、なんだかそんな気が……」  式部はことばをにごしたが、佐七はそのわき差しと左京の死体を見くらべて、 「辰、豆六、ちょっと死体を起こしてみろ。左京はほかにも手傷を負っちゃいねえか」 「へえ」  辰と豆六は左右から左京の裸身を抱きおこしたが、ふしぎなことには、傷のあるのはからだのまえだけ、背後にはかすり傷ひとつないのである。  それを見ると、佐七はキラリと目を光らせて、かたわらの町役人をふりかえった。  千々岩大八   ——いかにも左京のほれそうな男 「千々岩さん、おいでかえ」  町役人がさきに立って、立てつけのわるい腰高障子をひらくと、唐紙も障子もないふた間つづき、ひとめで見わたせる奥の間で、三十前後の大兵肥満《だいひょうひまん》の大男が、たすきがけで大あぐらをかき、まえにおいたすりばちのなかでなにやらこねている。  もう寝るつもりとみえて、そばにはせんべい布団がしいてある。 「ああ、大家さん、なんだかご近所がさわがしいようだが、なにかあったんですかえ」  と、にこにこと、こちらへむけた童顔にあいきょうがある。  役者のようにいい男というのではないが、男らしい男っぷりで、いかにも左京のような年増がほれそうな男だ。 「ああ、千々岩さん、それについて、お玉が池の親分が、おまえさんに尋ねたいことがあるとおっしゃるんだ。なんでもいいから、正直にいってあげておくれ」 「なに、お玉が池の親分が……」  大八はちょっとびっくりしたように目をみはって、すりばちのなかでこねていた手をやすめる。  肉のあつい、金太郎さんのような丸顔である。 「夜おそく押しかけてきてすみません。あっしゃお玉が池の佐七というものですが、ちょっとあなたに見ていただきたいものがございまして……」 「おれに見てもらいたいものとは……」 「はい、このわき差しですが、もしやこれはおまえさんのものでは……」  だしぬけに抜き身をつきつけられて、大八はギョッとしたように、かたわらの刀掛けをふりかえった。見ると、そこには大刀だけは掛かっているが、わき差しのほうは鞘《さや》だけ刀掛けのしたにころがっている。 「おお、これは、ちっとも気がつかなかったが、いったいだれが、いつのまに……」  大八は腰にぶらさげた手ぬぐいでいそいで手をふくと、表の間へつかつかと出てきた。  佐七は申すまでもなく、辰も豆六もきっと油断のない身構えだ。  大八は佐七の手から刀をとってみて、 「これはいかにもおれの刀だが、いったい、どこにこの刀が……」 「それをお話しするまえに、ちょっとお尋ね申しますが、あなた、こんやうちをおあけなさいましたか」 「ああ、いや、あのう、それは……」  と、大八はなぜか狼狽《ろうばい》して、 「いかにも、家をあけることはあけた。おお、そうだ、そのまにだれか忍びこんで、このわき差しを持ち出したとみえる」 「あなた、戸じまりは……?」 「あっはっは、見られるとおりの貧乏所帯、戸じまりなどそうげんじゅうには……」 「それで、お出かけさきは?」 「そのようなことを、いちいち申し立てねばならんのかな」 「はい、ぜひいっていただきます」 「まあ、断ろう。なにもそんな必要はなさそうだ。しかし、この刀はありがとう」  抜き身をていねいにふき清めて、パチンと鞘《さや》におさめると、そのままのっしのっしと奥の間へかえろうとするうしろから、町役人が呼びとめた。 「千々岩さん、千々岩さん、そんなことをいわないで、正直に行き先をいいなさい。おまえさんにゃいま、たいへんな疑いがかかっているんだから」 「なに、わたしにたいへんな疑いが……」 「そうですよ。表の女行者が切り殺されて、裏木戸のそとにその刀が落ちていたんです」 「なに、女行者が殺されて……?」  大八の顔色がさっとかわるのを見て、辰と豆六はすわとばかりに十手の柄を握りしめる。 「千々岩さん、まさかおまえさんがやったんじゃあるまいね」 「いいや、わたしじゃない、わたしは知らん」 「それじゃ、こんやどこへお出かけになったんです。それをいってくだされば、疑いも晴れるわけですから」  大八は一同の顔を見くらべていたが、やがて顔色をくもらせて、 「大家さん、残念ながらそれはいえぬ」 「千々岩さん、そんなことをいって、おまえさん、それじゃ縛られていいというのかえ」 「こんやの行き先をいわなければ下手人だといわれるならばやむをえぬ。身におぼえのないことながら、おなわちょうだいせねばならぬだろう」  命にかえてもこんやの秘密を守ろうというのか、それとも、じぶんが下手人でありながら秘密のありそうなことばを吐いてたくみに疑いをうすめようというのか……。  佐七はしずかに捕縄《ほじょう》をときながら、泰然たるあいての顔色を読んでいた。  お露大八   ——おもいがかなわずば死んでしまうと  千々岩大八を捕らえて自身番へ送りこんだものの、佐七はなんとなく釈然としなかった。  辰や豆六も同感で、 「ねえ、親分、人殺しをしに忍びこむのに、鞘《さや》をうちへおいて、抜き身だけさげていくというのは、変な話じゃありませんか」 「ほんまにそうや。それに、証拠になる刀を、現場のすぐそばへ捨ててくるちゅうのもおかしなもんや。こら、やっぱりだれかが大八の刀を盗み出し……」 「しかし、なあ、辰、豆六、そんなふうに思わせて、疑いをそらすという手もあるな」 「しかし、親分、あの大八という男が、そんなまわりくどい手をもちいるような男でしょうか」 「あっはっは、どうもそうはみえねえようだな。しかし、どうしてあんなに行き先をひたかくしにかくすんだろうな」 「親分、こらきっと色事だっせ。しかも、あいてがひとのおかみさんかなんかで、うっかりしゃべるとたいへんなことになる。そんなこっちゃおまへんやろか」 「ふむ、こりゃおおきに、豆六のいうとおりかもしれねえ。あれは女のほれそうな男だ。それに、おれにゃもうひとつ、ふに落ちねえところがある」 「ふに落ちねえところとは」 「左京の傷よ。左京の傷はからだのまえばかり。まるで、左京は切られるのを待っていたようなものじゃねえか。べつに縛られていたようなもようもねえし」 「ほんとに。それに、いかに母屋と離れとはなれていても、あれだけ切られるあいだ、式部と戸無瀬が気がつかなかったというのもへんですねえ」 「それもある。辰、豆六、この一件、これだけじゃすまねえような気がする。きょうはこのままひきあげるが、あしたになったら、またひとはたらきしてくれ」 「おっと、がってんです」  その晩はそのまま引き揚げたが、さて、その翌朝。  辰と豆六が出かけようとするところへ、表の格子のあく音がして、だれか客がきたらしく、まもなくお粂が入ってきた。 「お粂、お客さんかえ」 「はい、おまえさん、茅場町《かやばちょう》の伊勢屋《いせや》のだんなが、お嬢さんとおふたりで……」 「なに、茅場町の伊勢屋のだんなが……」  佐七ははっと辰と豆六と目を見かわしたが、 「おお、それじゃすぐこちらへお通ししろ」  伊勢屋のあるじ伊兵衛というのは、五十がらみの、いかにも大店《おおだな》のだんならしい、ゆったりとした人物である。  そのそばに、しょんぼりすわっている娘のお露は、いかさま茅場町小町の名にふさわしい器量だが、どうしたわけか、目を真っ赤に泣きはらしている。 「だんな、わざわざどうも恐れいります。じつは、こちらから参上しようと思っていたところで」 「いや、そんなことだろうとは思いましたが、話はすこしでも早いほうがよいと思いましてな。じつは、けさがた、これからたいへんなことを聞きましたので」 「たいへんなこととは?」 「いえね、これが目を真っ赤に泣きはらして、気がくるったようになっておりますんで、だんだん問いつめてまいりますと、なんと、おまえさんがゆうべひっくくりなすった千々岩大八さんというご浪人は、ゆうべこれのところへ忍んできていなすったんだそうで」  佐七ははっと辰と豆六をふりかえった。  豆六はうれしそうににやにやしている。  あいては人妻ではなかったけれど、かれのカンが当たったのである。 「それは、それは……すると、お嬢さんは千々岩さんとずっとまえから……」 「いえ、あの、それは……」  お露は火のついたような顔をして、消え入りそうな声である。 「お露、おまえ正直に申し上げてみろ。いいあとは悪いってこのことだあね。あっはっは」  伊兵衛は腹をゆすって笑っている。  お露はいよいよ肩をすぼめて、 「いや、もう、そんな……」  と、いまにも泣き出しそうな声である。 「あっはっは、ごめん、ごめん」  伊兵衛は闊達《かったつ》に笑って、 「あんまりおまえを恥ずかしがらせちゃかわいそうだから、おれから話してあげる。ねえ、親分、きいてください。ゆうべはじめて会うたんだそうですが、いったいどっちから口説いたんだいと尋ねたら、なんとあきれたもんじゃありませんか。こいつのほうからぞっこんほれて、せんからやいやいいってたのが、ゆうべやっと、おもん……おもんというのがこれの乳母ですが、その乳母の手引きで、千々岩さんがうちの離れへ、忍んでおいでなすったんだそうで。それでもまだ、千々岩さんはこんこんとこれに意見を加えてくだすったそうですが、なんと、やるもんじゃありませんか。これが剃刀《かみそり》でのどを突こうとしたんだそうで。いやはや、とんだお芝居でさ」 「あたし、お芝居じゃありません」  恥ずかしそうなうちにもお露はキッパリいってのけて、また火をつけたように赤くなる。 「あっはっは、そうか、そうか。このとおりだから手がつけられない。それには千々岩さんもお弱りなすったんでしょう。そんなにいってくれるなら……と、夫婦のちぎりを結んだんだそうで。これにとっちゃおもいがかなって、けさはおそらく日本晴れの気持ちで目がさめたんでしょうが、そこへきこえてきたのが、千々岩さんが左京殺しの下手人としてひっくくられたといううわさ。これが気がくるったように嘆くのもむりはない話で。ところで、千々岩さんはこれのことを?」 「いいえ、ひとこともおっしゃいませんよ。おそらく、お嬢さんのお名前にさわっちゃとお思いなすったんでしょう」 「そうですか、そうですか。わたしゃそれがうれしいんです。お露や、おまえのほれた男は、なかなかりっぱなおひとのようだな」  お露はうれしいのか恥ずかしいのか、それとも悲しいのか、ポトリと涙をひざへおとした。  佐七はいじらしいような、ほほえましいような顔を辰や豆六と見合わせて、 「お嬢さん、恥ずかしいのをがまんして、よく打ち明けてくださいましたね。ところで、千々岩さんは丸腰でおみえになったんでしょうね」 「はい。あの、もちろん……」 「それで、何刻《なんどき》ごろきて、何刻ごろおかえりで」 「五つ半(九時)ごろおみえになって、四つ半(十一時)ごろに……」 「おかえりになったんですか」 「はい」  左京の殺されたのは四つ(十時)ごろ。これでは完全にアリバイが成立している。 「お嬢さん、それに間違いはございますまいね」 「いや、親分、そりゃ間違いなさそうですよ。わたしゃ乳母のおもんにもよくたしかめてみましたがね」 「なるほど。ところで、だんなはそのことに気がおつきじゃなかったんで」 「いやあ、あっはっは」  と、伊兵衛はつるりと顔をなでると、 「ところが、そのだんなはだんなで、ちょっとよそで浮気をしておりましたんでな。まあ、娘が娘なら、おやじもおやじというところで」 「ああ、深川にいいかたをかこっていらっしゃるそうで……お米さんとかおっしゃるそうですね」 「いいかたか悪いかたかしらないが、先年家内をうしなったもんですから、つい閨寂《ねやさび》しさに深川の芸者をひかしてかこっているんですが、こいつ近々別れようと思ってます」 「どうしてですか」 「どうやら、ほかにおとこができたらしいんで。どういう男かしらないけれど、おもう男があるとすれば、いつまでもこんなじじいが縛っておくのもかわいそうですから」 「ところで、だんなは左京の世話もしていられたそうですね」 「いやはや、どうも面目ない」  と、伊兵衛はまたつるりと顔をなでて、 「あれはね、まったく左京のほうから水をむけられたんです。この春これが病気をして、どうもはかばかしくないところへ、あいつのうわさをきいたので、祈祷《きとう》を頼みにいったんですが、すると三度目でしたか、ひとけのない離れ座敷へ通されて、味に持ちかけられたので、ついふらふらと……あとで後悔したんですが、わたしも男だ。それきり、はい、さようならというわけにもいかず、ずるずるべったりに世話をしていたんですが、あいつはどうも食わせもんでしたね」 「食わせもんとは……?」 「ほかにおとこがあるらしいんです。だしぬけに出かけていくと、どうも男とふざけてたんじゃないかと思われるようなことがちょくちょくあったんです。それがじつに上手にかくしていまして、どんな男かわからないんですが、……わたしもべつにしんからほれているわけじゃないし、やきもちらしくきくのも野暮な話で、しらん顔をしてとおしてきましたがね」 「だんな、ひょっとすると、そのおとこというのは、瀬戸物町の柊屋《ひいらぎや》のせがれで、辰三郎というんじゃありませんか」 「いや、いや、いや」  と、伊兵衛はあわてて手をふって、 「わたしゃだれかしりませんよ。ただ、おとこがあって、しょっちゅう会うていたらしいと、それだけ申し上げますんで」  佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  たまにくる伊兵衛でさえ気づいている事実を、式部や戸無瀬がしらぬはずはない。  それではふたりがかくしているのか、それとも左京のかくし男とは、やっぱり柊屋のせがれの辰三郎ではなかろうか。  佐七は瀬戸物町へおもむいて、辰三郎を自身番へ呼びだし、ひととおり取り調べたが、辰三郎もそんな大それたことをやらかすような男とはみえなかった。  辰三郎というのは、二十二、三の、色白のひよわそうな若者で、なるほど左京におもいをかけてはいたが、口に出していう勇気もなく、したがって関係などあろうはずがないといいきった。  佐七はついでに妹のお早にあってみたが、これはいかにも白痴にちかい小娘らしく、なにを聞いてもにやにや薄笑いをうかべるばかりで、佐七は業をにやして取り調べをうちきった。  そのかえりに茅場町へたちよって、もういちど戸無瀬や式部にたしかめてみたが、ふたりとも辰三郎が左京にほれていたことはたしかだが、関係があったとは思えないという。  また、伊勢屋の伊兵衛の話だが、それはおそらくだんなの疑心暗鬼で、以前はともかく、ちかごろお師匠さんにおとこがあったなどということはぜったいにないと、戸無瀬も式部もいいきった。  こうして、この探索はまんまと暗礁にのりあげて、そうでなくとも師走の気ぜわしいなかを、佐七のいらだちのうちに一週間ほどすぎた。  左京はとてもけちで、かなりためこんでいるらしいという話だが、それも下手人があがるまでは、どう処分のしようもなかった。  ふたつの死体   ——式部だけが顔を火にふかれて  アリバイが立証されたので、千々岩大八はかえされたが、そのかわり、左京殺しの下手人は迷宮入りになりそうだった。  伊勢屋の伊兵衛は、めかけのお米にひまをやって、 「こうなったら、いちにちもはやく、お露と千々岩さんを夫婦にして孫の顔をみるのが楽しみだが、それにゃ左京の一件が片づかなきゃ……ねえ、親分、なんとかして、はやく下手人をあげてくださいよ」  と、矢のような催促である。  伊兵衛にいわれるまでもなく、佐七もなんとかして年の内にらちをあけたいと、肝胆をくだいていたが、すると、左京が殺されてから八日目の夜おそく、ほとんど真夜中ごろのことである。 「親分、起きてください。お玉が池の親分、起きてください。たいへんです。たいへんです」  あわただしく、表の格子をたたくものがあった。  寝入りばなを起こされて、佐七はいうにおよばず、辰や豆六もすわなにごとととび起きる。  お粂がいそいで格子をひらくと、ころげるように入ってきたのは、ちかごろ顔見知りになった伊勢屋の番頭、利吉というものである。 「おお、おまえさんは伊勢屋の番頭さん、なにかまた、おたくに変わったことでも……」 「いいえ、うちじゃありません。女行者の祈祷所《きとうしょ》が焼けたんです」 「左京の祈祷所が焼けた……?」 「そうです、そうです。しかし、さいわい見つけるのがはやく、半焼けですんだんですが、そのあとがたいへんです」 「そのあとがたいへんとは……?」 「死体がふたつ出てきたんです。戸無瀬と式部の……」 「なんだ。ふたりとも焼け死んだのか」 「いや、ところが、そうじゃないらしいんで。だれかがふたりを絞め殺し、左京のかせぎためた金をかつぎだし、そのあとで、うちに火をつけたらしいんです。それですから、親分、一刻もはやくきてください」 「よし、お粂、支度だ。辰、豆六、おまえたちもしたくをしろ」 「おっと、がってんだ」  左京のうちはさんたんたる状態で、半焼けとはいえ、四方八方から竜吐水《りゅうどすい》をあびせられて、足の踏み場もないくらいだ。  佐七は右往左往する野次馬をかきわけて、焼けのこった母屋の一室へ顔を出すと、ふたつならんだ死体のそばに、町役人をはじめとして、伊勢屋の伊兵衛も千々岩大八も顔をならべていた。  大八はだいぶ消化に活躍したらしく、髪をこがし、こめかみに血をにじませている。  佐七は目顔で一同にあいさつすると、ふたつの死体に目をやったが、式部とおぼしいわかい死体の顔に目をとめたとたん、おもわずゾーッと総毛立つのをおぼえた。  式部は白小そでに、緋《ひ》の袴《はかま》をはいたまま死んでいるのだが、その顔はむざんに火にふかれて、相好のみわけもつかぬくらいである。  それにはんして、寝間着すがたの戸無瀬のほうは、どこも焼かれてはいなかったが、あきらかに絞殺された跡がうかがわれた。  佐七はていねいにふたつの死体をあらためたのち、 「伊勢屋のだんな、また、とんだことができましたね」  と話しかけると、横合いから居合い抜きの千々岩大八が口を出した。 「お玉が池の親分、おまえさん、その死体をみて変に思うところはないかえ」 「変に思うところとは?」 「さすがのおまえさんも、だまされていなすったんだな。もっとも、むりはない。おれだって、からだにさわらなきゃ、気がつかずにすむところだったんだが……」 「千々岩さん、それはどういうことですえ」 「親分、おまえさんはこのおれが、王子の紅葉狩りのとき、左京と式部の難をすくったことはお聞きなすったそうだが、そのときおれは、式部が中間《ちゅうげん》につきとばされて、あやうく崖《がけ》から落ちるところをうしろから抱きとめたんだ。それで知っているんだが、式部というのは女じゃなかった。あれは男……といっても、まだ十五、六の子どもだが、それでもたしかに男だった。ところが、そこに式部の着物をきて、顔をやかれて死んでいるのは、まぎれもない女、だから、それは式部の死体じゃないはずだ。親分、それからあとは、おまえさんの手柄にしなせえ。おれもこんなことになるとしったら、もっとはやく打ち明けたんだが、まさかあんな子どもが……と、たかをくくっていたもんだから、いままで黙っていたんだ。まあ、勘弁してくれ」  佐七をはじめ辰と豆六、さては伊勢屋のだんなも、町役人も、あきれかえったように、式部のきものをきた死体と、千々岩大八の顔を見くらべていた。  それでは伊兵衛がかんづいていた左京のおとことは、女装の式部だったのか。  凶悪無類   ——大八は市井|任侠《にんきょう》の徒として売った  おそらく男姿にかえってかくれているだろうと思われる式部のゆくえが八方探索されたが、なかなかいどころがわからなかった。  いっぽう、式部の身がわりにされた女だが、どうやらそれは、柊屋のお早だったらしい。  お早はあの晩からゆくえがわからないのだ。  こうして、年の瀬の忙しいなかを、江戸じゅうの岡《おか》っ引《ぴ》きが血まなこになって式部のゆくえを探索しているうちに、二日とたち、三日とすぎたが、大晦日《おおみそか》をあすにひかえた四日目の昼過ぎのことである。  とつぜん、さっと佐七の頭にひらめいたことがある。  伊勢屋のだんなのめかけのお米に、ちかごろおとこができたらしいが、そのおとこというのを、だんなはしらぬという。ひょっとすると、その男というのが式部なのではあるまいか。  それはずいぶんきわどい考えかただったが、しかし、佐七のカンはみごとに的中したのだ。  辰と豆六に命をふくめてさぐらせてみると、六間堀のお米の宅には、たしかにだれか潜伏しているらしいという。 「あま、ふざけやアがって。ちかごろ毎日、近所のうなぎ屋から、うなぎを二人前、取りよせて食ってやアあがるんです」 「それに、親分、以前いた女中もばあやもひまを出して、お米はいまひとりぐらしや。かくまわれてるのが式部かどうかわかりまへんが、世間にしられたくないやつにちがいおまへんな」 「親分、ぐずぐずしちゃいられませんぜ、お米はちかごろ少しずつ所帯道具のしまつをしているらしいから、やつら高飛びする気じゃありませんか」  なるほど、それを聞いちゃぐずぐずしてはいられなかった。 「よし、それじゃかまうことはねえ。こんやあたり踏みこんでみよう」  と、大晦日の夜おそく、辰と豆六をひきつれてやってきたのは六間堀。  三人三方にわかれると、佐七はおもてへまわって格子をたたいた。 「もし、おかみさん、おそくなって申し訳ございませんが、伊勢屋の番頭の利吉でございます。ちょっとここをおあけくださいまし。だんながもうひと品お渡しするのを忘れていたとおっしゃいまして、いま、おことづかりしてまいりました。もし、おかみさん、お米さま、おやすみでございますか。ちょっとここをおあけくださいまし。伊勢屋の番頭の利吉でございます」  近所の手前もなんのその、どんどん格子をたたいていると、やがて唐紙のあく音がして、格子のなかにあかりがさした。 「なんだねえ、利吉どん、いまごろまた……ご近所がご迷惑なさるじゃないか」 「へえ、へえ、まことに申し訳ございません。だんなが年を越すのは気持ちが悪いから、至急おわたししてこいとおっしゃいますもんですから」 「いったい、おわたしする品ってどんなもの」  ぶつぶつつぶやきながら、格子をひらいたお米は、そこに立っている佐七のすがたを見ると、 「あっ!」  とさけんで、あわてて格子をしめようとする。  しかし、すかさずなかにわりこんだ佐七は、すばやくあいての手から雪洞《ぼんぼり》をとると、ずいとそれを女の顔につきつけた。  お米は年ごろ二十二、三、さすがに、伊勢屋のだんなが寵愛《ちょうあい》していただけに、すごいような器量である。緋《ひ》の長じゅばんのうえに、縞《しま》の羽織をひっかけて、がっくり横にかたむいた髷《まげ》、おくれ毛がばらばらとほおにかかっているのもなやましい。 「なんだえ、おまえさんは。この夜更けに押しこんできて、いったいどうしようというんだえ」  弱みをみせじと、お米はきっと居丈高になったが、顔が紙のように白くなって、ぶるぶるふるえているのがかくせない。 「ああ、おまえがお米さんか。おくにお客さんがいるようだが、ちょっと会わせてもらいたい」 「お客さんて、そんなひとはいませんよ。さっさと出ていっておくれ」 「お米、四の五のいわずに会わせりゃいいんだ」  と、佐七があがりがまちに足をかけると、 「あれ、吉つぁん、逃げておくれ」 「お米、御用だ」  佐七がお米になわをかけているあいだに、おくのほうでもばたばたとものさわがしい音がきこえたが、それもつかの間。なまめかしい絹夜具に、ふたつまくらのならんだ奥座敷へ、佐七がお米をひっぱってくると、うらのほうから辰と豆六が、帯もほどけて裸同様の前髪の美少年をしばりあげてひっ張ってきたが、それが式部であったことは、いまさらここにいうまでもない。  式部の本名は吉松といって、親なし子の不良少年。持ってうまれた美貌《びぼう》をたねに、女から女へと渡りあるいているうちに、いつか左京とねんごろになった。  左京は、しかし、あいてが男姿ではつごうがわるいので、女装させて式部と名のらせ、あやしい関係をつづけていたのである。  しかし、吉松のほうでは、そんなふうに女のおもちゃになっていることに、しだいにいや気がさしてきた。  ちょうどそのころ、お米が祈祷所へどなりこんできたのだが、多情な吉松はお米といつか関係を結んでしまった。  そして、左京を殺してかせぎためた金をうばおうと画策しているうちに、左京がかくし祈祷のことをいい出したのである。  ただし、かくし祈祷というのは表面だけで、左京はじぶんが切られたようにみせかけて、その罪を大八になすりつけようとしたのだ。  そこで、あの晩大八がこっそり伊勢屋へ忍んでいくのを見すました左京は、かねてからお露とのことを耳にしていただけに、嫉妬《しっと》の炎に目がくらんでしまった。なにしろ、恋のかなわぬ意趣晴らしのうえに、嫉妬に目がくらんでしまったのだから、さすが利口な左京も、あの晩ばかりはいささか思慮分別にかけていたらしい。  こっそり大八の留守宅へしのびこみ、わき差しをぬすみ出し、じぶんで四カ所の傷をつけ、暗がりのなかで気絶したふうをして倒れていたというのは、大八に殺人未遂の罪をかぶせようとしたのだが、嫉妬に目のくらんだ女のあさはかさ、そこに大きな誤算がふたつあることに気がつかなかった。  ひとつは、おもう男にさんざんかわいがられて、おもいを遂げさせてもらった女の強さと犠牲的精神である。  身分違いのお露大八、いかにお露が恋いこがれてやいのやいのと持ちかけても、まさかよりによって、あの晩、大八がお露の情けにほだされて、たがいに帯ひもといて抱き合って、のっぴきならぬ仲になろうなどとは、左京にも思いもよらぬことだった。  だから、大八のアリバイがああも簡単に立証されようとは、夢にも思っていなかったろう。  左京のさらにもうひとつ大きな誤算、致命的ともいうべき誤算は、吉松の心がわりを見抜けなかったことだろう。  吉松の心はとっくの昔に左京を去って、お米のほうに傾いていた。吉松はただ左京のためこんだ金に目をつけ、それを盗み出すチャンスをねらっていたのだが、そこへ左京から持ちかけられたのが、千々岩大八をおとしいれるためのかくし祈祷の一件である。  佐七もあのとき首をかしげたとおり、左京の傷は四カ所とも体の前面に集中していた。それではひとに怪しまれるかもしれないと思ったので、吉松をかたらい、背中に二、三カ所、適当に傷をつけてくれるよう頼んでおいたのである。  吉松にとってはこれぞ絶好のチャンスであった。  だから、あの晩ころあいをみて、祈祷所へやってきた式部と戸無瀬。暗がりのなかでまず左京のからだを探りあてた式部の吉松は、戸無瀬を母屋へあかりをとりにやると、そこに落ちていた大八の刀をとりあげ、背中に薄手をおわせるかわりに、ぐさっとひと突き乳房をえぐり、刀はあとで裏のどぶへすてておいたのだ。  人をのろわば穴ふたつというが、左京こそはみずから掘った墓穴へまんまと落ちたというべきだろう。  わるいやつは吉松で、かれは背かっこうがじぶんに似ているのをさいわいに、いつかじぶんの身代わりに立てるつもりで、白痴のお早と関係をつけ、かねてから手なずけておいたという。  それにしても、かれの女装がいかに巧妙だったかということは、おなじ屋根のしたに住みながら、戸無瀬がさいごまで気がつかなかったということでもうかがえるだろう。  それが、たったいちどの、ほんのちょっとした体のふれあいから、千々岩大八に見抜かれていたというのも運のつきだろうが、それがなかったら、この一件、さすがの佐七もお手あげになっていたかもしれない。  こうして、左京を殺し、戸無瀬とお早をあやめ、師走から大晦日《おおみそか》へかけて江戸中をふるえあがらせた凶悪無類の犯人が、かぞえ年でわずか十六だときいたときには、世間のひとたち怖気《おぞけ》をふるっておそれおののいたという。  その年が明けるとそうそう、お露はめでたく千々岩大八と女夫《めおと》になった。  大八はその後大小を捨てて、市井任侠《しせいにんきょう》の徒として鳴らしたということである。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳(巻十八) 横溝正史作 二〇〇四年九月十日 Ver1